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伝統あるプロテスタント・キリストの教会です。 

メッセージ

新メッセージ
              


<2月5日のメッセージ >

≪ 縁の下の力持ち ≫

 

Ø   【 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気が無くなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつぶされるだけである。】(マタイ5:13) ユダヤのラビは、≪モーセ五書≫を≪地の塩≫としてほめたたえた。しかしイエスは、弟子たちが≪地の塩≫であると語る。塩は、当時、味付け、そして保存料として用いた。塩は少量で、その役目を果たす。弟子も同様に、少数でも社会の汚染を防ぐ。また社会にあって≪縁の下の力持ち≫、あるいは<しんがり>として働く。

Ø   【 あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。】(マタイ5:14) イエスが、カファルナウムに住み、ゼブルン、ナフタリで、宣教活動を開始した時、彼は、≪偉大な光≫が射し昇る希望として輝いた。<暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。>(マタイ4:16) ユダヤの詩人は、主を光として歌っている。<主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。>(詩編27:1) イザヤは、≪モーセ五書≫に触れ、それが、命の道を照らす明かりであると教えている。

  
 <あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯>(詩篇119:105) ところで、イエスは何故、弟子たちのようなあまり重要でない集団を指して、<世の光>であると宣言したのであろうか? 【
そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父を崇めるようになるためである。】(5:16) 少し弟子を買いかぶっているのではないかとの疑問が生じる。イエスの真意はどこにあるのだろうか? イエスは、弟子が人々の称賛を浴びようとすることに警告を発している。



Ø   弟子は、あくまでイエスとの関係に於いて、≪証人≫でしかない。彼ら自身で、輝いている、あるいは力があるわけではない。言葉と行いにおいて、証人の役を担っているのである。イエスは、弟子に、自己努力を勧めているのではない。イエスの言葉を信じ、受け入れ、新たな現実に向けて生きることを励ましている。≪である≫と現在形で語られていることが重要である。将来、そうなるであろうとか、約束で語っているのではない。弟子が、良い行いをするのは、イエスとしっかりと繋がっているからである。








< 1月29日のメッセージ >

≪ 幸いと不幸の分かれ目 ≫

 

Ø   【 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。】(マタイ5:1) 
 ≪山上の説教≫の冒頭の部分である。これは、シナイ山で、モーセに与えられた≪十戒≫が、背景にある。つまり、イエスは、新しい戒めを語るのである。それが、≪山上の説教≫である。両者の違いは、≪十戒≫は、≪してはいけない≫との宗教的、道徳的掟で占められているが、≪山上の説教≫は、≪幸いである!≫との呼びかけに見られるように、祝福が記される。

 

Ø    心の貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものである。】(マタイ5:3) 
   <心の貧しい>とはいかなる意味か? 普通は、良い意味では使われない。心が貧相、あるい  は貪欲を意味する。クムラン教団では、<彼らは、神の助けを必要としている人々>を指してい  る。パウロやルターが語る、<罪人の義認>と同じである。<心の貧しい人>とは、まずもって、  何も持っていない人、≪無≫である人を指す。別の表現では、<抑圧された人>、<必要とさ  れない人>である。
 

Ø    それでは、福音は、彼らに何をもたらすのか? 彼らに新たな尊厳、そして生きる力を供与す  る。神の子としての尊厳である。貧しい人は常に聞かされていた。<おまえは、社会から役に立  たないと言われている>、あるいは<あなたは良いことの一つも果たしていない。社会のごみ同  様だ>と。このような声は、怖い。当人をいじけさせ、ゆがめ、果ては自己嫌悪を招く。信仰はそ  こから高め、自信を回復させる。イエスは、人間社会が、激しい競争で、分裂を引き起こしてい   ると考えた。そして<分かち合い>の重要性を訴えるのである。

Ø    子供たちをこさせなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国は、このような  者たちのものである。】(マタイ19:13) 
   イエスは、神の国が、貧しい人たちにあることを発見した。即ち、<貧しい人>が、神の国を示  していると考えた。何故か? ある時、イエスの祝福を頂くため、人々が、イエスの元に子供たち  を連れてきた。それを見た、弟子たちはたしなめた。しかしイエスは、それを止めた。そして語っ  たのが、上記の言葉である。もし神の国に入りたければ、子供のようにならなければならない。   そうしなければ入れない。神の国は、単純に、しかも暗黙のうちに存在している。






< 1月8日のメッセージ >

               ≪ 星に導かれて ≫

Ø   【 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。その時、占星術の学者たちが東のほうからエルサレムに来て、】(マタイ2:1) 
 マタイだけが、東方の博士たちの到来を告げている。占星術の学者たちが、上る星を観察して、ユダヤ人の王として生まれた方を、探しに来た。当時の世界では、≪星≫が、支配者の誕生を示すという考えは、普及していた。
 ≪私には彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。一つの星がヤコブから進み出る。≫(民数24:17)

Ø    星が(おそらく流れ星であろう)、王の誕生を示している、代表的記事である。決して≪星≫    そのものが問題になっているのではない。彼らは、ヘロデ大王に、そのことを尋ねた。
    【 
ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。】(マタイ2:2) 
   王は、早速、祭司長や、律法学者たちに調べさせた。それで、ミカの預言を発見した。王は、   ベツレヘムで生まれると記されていた。博士たちは、旅を続けた。星は再び現れ、ベツレヘム   へと導いた。そして星は、イエスがお生まれになった場所で止まった。

Ø     彼らは、黄金、乳香、没薬を捧げた。10世紀に生きた、ある修道僧は語っている。<黄金   は王にふさわしい、乳香は、神への奉仕を指す。没薬は、死人の腐敗を遅らせる。黄金は、イ   エスがまことの王であることを示し、乳香は、彼がまことの神であり、没薬は、彼が死ぬ運命に   あるが、永遠に不死であることを示す。> 
     伝説では、博士たちは、3人であったと言われる。ある説では、4人いたとも言う。彼らは、   ラクダ、ロバ、あるいは徒歩で、ベツレヘムへ向かったであろう。ギリシャ語の<Magi>には、   広い意味がある。 

Ø    【  ところが、『ヘロデのところに帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分た ちの国へ帰って行った。】(マタイ2:12) 
 彼らは、王に、生まれた場所を教えてくれるように頼まれたが、結局聞き入れなかった。彼らは、機転を利かせたのであろう? あるいは、何かの理由で、王を信用しなかったのである。おそらく、≪ヘロディウム≫と呼ばれる、強固な≪要塞≫を見たに違いない。ここに私たちは、信仰的に生きることを学ぶ。<信仰は、人を信用することと同時に、ある場合には、自分の判断を優先すべきことを>。










< 元旦のメッセージ >

≪ 飛翔する年 ≫

 

 【だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り
新しいものが生じた。
】(Ⅱコリント)  
新しい年が始まった。念頭に聞く、この言葉は、新鮮で、目新しい響きを持っている。今年こそはと願っている人は多いと思う。昨年の反省を踏まえ、新しいことに挑戦する年でありたい。年頭は、やり直しができることを告げている。そのことが何より嬉しい。反省が生かされる機会である。抱負と期待を持って、この一年を送るものでありたい。

Ø   ≪正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし≫と一休和尚は歌った。確かに、年が改まったからと言って、万物が更新されるわけではない。冷静で、少し客観的に考えると、全てのことは古いままである。否、人間は確実に一つ年を取り、老いて行くわけである。浮かれてばかりはいられない。それでは、聖書は、何が≪新しい≫と表現するのだろうか? 
キリストと結ばれる人は≫と説明されている。ここがキーワードである。ここに≪新しさ≫が潜んでいるのである。≪新しい≫との言葉は、二様に使われる。

Ø   一つは、まっさら、純白、あるいは前人未到の地を制覇した時などに使われる≪真新しい≫との意味である。多くの日本人は、この意味で使うことが多い。しかし聖書では、≪漂白≫、≪もう一度≫、≪再チャレンジ≫と言う意味で使う。英語では、” Renewal ”である。特に、私たちにとって、もう一度、人と≪和解≫” Reconciliation ”する機会である。 気まずくなった相手と、喧嘩してしまった仲間と、もう一度やり直す機会、挑戦する時である。それは、キリストが執り成してくださるからである。是非≪仕切り直し≫の年でありたい。

    今年の干支は、≪酉年≫である。鳥が飛ぶ姿を<飛翔>と呼ぶ。沼津アルプスの〈鷲頭山〉  には、多くの<鳶>が生息している。実に見事に<飛翔>する<鳶>を見かける。特に上昇   気流に乗って<飛翔>する様は、つい見とれてしまうほどである。優雅で、実に美しい。その姿  を見ると、自分の生きる姿を振り返ってしまう。あんな風に生きたいものだと思う。カラスやハトは  <鳶>のようには、飛翔できない。羽をばたつかせてる様が、何かぎこちなさが感じられる。
   昨年は、≪申年≫、反省は少し控え、今年こそは、鳥のように、≪飛翔≫する年でありたい。  また≪飛躍≫するように祈って行きたい。



 
                          

< 12月25日のメッセージ >

           ≪ 人間を照らす光 ≫

Ø   【初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。】(ヨハネ1:1)
 ヨハネには、他の福音書のような、クリスマス物語はない。しかしこの冒頭の言葉は、ヨハネ独特であり、<詩的>である。決して韻を踏んでいるわけではないが、詩編に見られるような<詩的>表現になっている。一つの思想を、平行表現を用いて、発展的に述べている。このヨハネの<プロローグ>は、明らかに創世記の<天地創造>の記事に倣っている。

Ø   ≪初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』 こうして光があった。≫(創世記1:1)
 まず≪初めに≫の表現が、両者に共通している。これは、歴史の起源を指している。あるいは<永遠>を意味している。それから、イエス・キリストが<言葉>であるとは、天地創造が、神の言葉によって生じたことに対応する。人間世界に見られる、言葉と行いの分裂がない。世界の混乱は、この言葉と行いの分裂に原因しているからである。

Ø   【 言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。】(ヨハネ1:4) 
創世記では、天地創造の後に、<堕罪>の物語が出てくるが、それに相当するのが、<暗闇>である。人間は、神の救いの光よりも、無知と罪の暗闇の方を好む。(3:19) 元ビートルズのメンバー、ジョン・レノンが、クリスマス・ソングを書き残している。<ハッピー・クリスマス>” Happy Xmas ”War is over) ちょうどアメリカが、ベトナム戦争のさなかにある時である。彼は戦争が早く終わることを願って歌った。

Ø   ≪ So this is Xmas And what have you done ≫ 誰もが、この季節になると、歌っていた曲であり、口ずさんだ歌である。クリスマスがやって来た喜びと、世界の平和を強く願う歌詞が心を打つ。≪弱い人も、強い人も、そして富んだ人も、貧しい人も≫と歌い続き、全世界の人が手を携えて、仲良く暮らそうというメッセージが込められている。どうしたら、この世界から、戦争を無くし、争いを無くすことができるのだろうか? しかし彼は、凶弾に倒れて亡くなった。最後に、” The world is so wrong ”(世界はひどく悪くなっているから) と歌い残している。ヨハネの言葉をもう一度胸にとめたいと思う。

 

<12月18日のメッセージ >

          ≪ アメイジンググレイス ≫ 

Ø   【 わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。】(ルカ1:46)  古来より、この歌は≪マグニフィカート≫と呼ばれ、讃美歌の一つであった。マリアは、≪わたし の魂≫” My heart ”、≪わたしの霊≫” My soul ”と自分を表現するのに使い分け、≪体全体≫ で歌っている。主語は、≪私の≫となっているが、マリアは、人間を代表していることは確かであ  る。何故なら、<主の到来は、全ての人が対象である>からである。不思議なのは、神のメッセー ジが、この貧しい一人のおとめに臨んだことである。

   【 身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。】(ルカ1:48) 
  この言葉に、マリアが讃美する理由が記される。即ちこの名も無い身分の低い彼女が、神によっ て高くされ、神の子をやどすという大役を担ったからである。この歌の特徴は、全体が<二行連  句>になっていて、神の力ある働きのしるしが、劇的転覆となり、より一層強調されている。しかし 身分の低い者、貧しい者たちの、反抗を駆り立てて、神の力が弱い人に、そのようにして現れるこ とは意図していない。

Ø   ≪讃美≫の中身は、あくまで、神の≪贖い≫の働きが、未来ではなく、今やはじまったと言うことである。≪マリアの讃歌≫は、原形を≪ハンナの祈り≫(Ⅰサム2:1~10)に求めることができる。こちらは特に、神のなさる働きは、常に≪転覆≫、≪逆転≫が特徴として表現されている。それは、畢竟するに、神の救いは、いつも≪転覆≫にあることを語っている。神から遠く離れている者、失われた者、恥さらしの人間等が、対象なのである。それが、神の救いのやり方なのである。

Ø    ≪アメイジング・グレイス≫と言う歌がある。神の恵みは、いつも≪溢れる恵み≫と表現される   のである。この歌は、ジョン・ニュートンの作詞による。彼の劇的回心から生まれたと言われてい   る。その歌詞を載せてみよう。” Amazing Grace how sweet the sound. That saved a wretch     like me. I once was lost but now am found, Was blind but now I see.” と歌われてゆく。神の
救いは、 まことに、 ≪溢れる恵み≫としか表現できない。 何故なら、私のような悪党、 失われ、
目が開かれていない人間も、救われるんだから。このテーマは、まさに≪マリアの讃歌≫と同様のテーマと言えるのではなかろうか!








< 12月11日のメッセージ >

≪ 夢見る人 ≫

 

Ø   【  イエス・キリストの誕生の次第はこのようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身籠っていることが明らかになった。 】(マタイ1:18)
 この記事を読み、不思議に思う人が多いであろう。そこでまず、私たちは、マタイ福音書がどのような書き方をしているかを見る必要がある。イエスの系図で、マタイは、アブラハム、ダビデまで遡っている(マタイ1:1)。マタイのメッセージは、神が<選ばれた民に>、新しい始まりを起こすことである。つまりイエスは、初めに神が選ばれた民の子孫である。

 

Ø   更に、イエスがダビデの子孫であることで、王を取り戻すというのである。それは、捕囚で
BC597年に、彼らの王が、バビロンに連れて行かれて以来のことである。イエスは、ここで、メシアとしての王(ダビデの子孫)であると言われている。即ち、イエスにおいて、メシアが実現したと言うのである。そしてメシアの時代が始まったのである。マタイの系図を見ると。興味深いことが分かる。それは、系図とは、本来男子しか出てこないが、4人の女性たちが登場する。しかもいわくつきの女性たちである。

Ø  ≪タマル、ラハブ、ルツ、バトシェバ≫の4人である。<タマル>は、嫁でありながら、夫の父親(ユダ)と結ばれた人である(創8:15)。<ラハブ>は、ヨシュアの時代、エリコを侵入する時、二人の斥候が遣わされ、まず遊女の屋敷に潜入した時に出会った女性である。彼女は、二人の斥候をかくまうのである。<ルツ>は、異邦の女性である。最後の<バトシェバ>は、ダビデの不倫相手である。しかし彼女は、やがて神の赦しを得、ソロモンを生むことになる。


Ø   【  主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子、ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。』 】(マタイ1:20) 
 夢とは、儚く、淡いものである。しかし聖書では、夢で神が啓示される。代表的例が、ヨセフである。フロイトは、夢を分析することで、悩める人間を治療するために役立てた。それは、儚い夢を、実際に生かそうとした。<夢>は、すぐに消えて無くなってしまうものかもしれない、しかし私たちの現実の行動に用いることができる。指針さえ与えてくれる。そのように、神の指示は、はっきりと具体的に示されないが、み言葉を通して示される。それを人間が、行動の判断として用いるかどうかなのである。

 



< 12月4日のメッセージ >

                         ≪ ヨルダン川の叫び ≫

 

O   【 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ、天の国は近づいた』と言った。】(マタイ3:1)
 この季節には、決まって登場するのが、≪バプテスマのヨハネ≫である。彼の出自は、ルカに記されている通り、父はザカリアであり、本来であれば、家督を継いで、神殿祭司にならなければならなかったが、彼は、その地位を捨て、≪荒れ野≫で宣教を開始した。しかも相当過激な預言者となった。それは、≪そのころ≫との表現に深く関係している。その言葉は、前の記事と関係している。 

O   マタイ2章には、≪東方の博士≫の訪問が出てくる。彼らは、ヘロデを訪ね、聞いた。神の子の誕生の場所を。しかしヘロデは、内心不安を感じ、結果、幼児虐殺をもくろむ。ヨハネが、活動を始めた時は、時代的に不穏な動き、出来事が次々に起こった。≪そのころ≫とは、そんな極めて混乱し、安定を欠いた時代であった。主イエスの降誕は、危険と隣り合わせの中起きた。ヨハネが、何故、安定した祭司職を捨て、≪荒れ野≫で預言者となったかが分かる。

O    ≪荒れ野≫に何故、ヨハネはこだわったのであろうか? そこは、何もない場所である。しかし そこはまた、昔から神がイスラエルの民を訓練したところである。40年間、≪荒れ野≫で試練を受 けた。そして彼らは≪生ける神≫に出会った。その結果、押しも押されぬ、≪選民≫となったのである。ヨハネは、だから≪荒れ野≫で始めることで、元に戻ること、信仰の原点に戻れることを促した。同時に、≪悔い改め≫とは、まさしく、≪荒れ野≫に戻ること、そして自分たち民族の出発点に≪立ち返ること≫を宣言した。

 O   【 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、川沿いの地方一帯から、人々がヨハネの下に 来て、罪の告白をし、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。】(マタイ3:5) 
   大げさに聞こえるかもしれない。しかし事実であったであろう。ヨハネの影響力は、当時相当な ものであったようである。当時の歴史家、ヨセフスによれば、ヘロデは、彼を恐れるあまり、彼を追放したのである。同時に、民衆の期待。長い間彼のような優れた指導者を待ち焦がれてきた。両者のマッチングがあり、ヨハネは、優れた指導者、そしてイエスの<先駆者>となった。

 





< 11月27日のメッセージ >


≪ 盗人のようにやって来る ≫

 

Ø   【 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかくなり、葉が出るようになると、夏が近いことが分かる。】(マタイ24:32) 
 ≪アドベント・クランツ≫に火が灯る。こうして私たちは、4週間≪キリストの降誕≫を待ち焦がれるのである。しかし同時に、<アドベント>には、もう一つの意味がある。それは、≪キリストの来臨≫を待つということである。初代教会の挨拶は、≪マラナタ≫(主よ来たりませ!)と呼び交わすことであったという。

Ø   マタイ24章のはじめに、弟子たちが、イエスにひそかに問うている。≪どうぞお話し下さい。あなたがまたおいでになる時や、世の終わりには、どんな前兆がありますか?≫(24:3) ここに明らかに≪再び≫と表現され、再臨が示唆されている。つまり、≪世の終わり≫と≪キリストの再臨≫が結びついている。≪世の終わり≫のテーマは、旧約の≪ノア≫の物語に代表されるように、≪裁き≫と≪再創造≫である。世の乱れに対しての神の裁きと回復である。

Ø  確かに、≪いちじくの木≫は、イスラエルで、夏のしるしと考えられる。それは、多くの≪常緑樹≫と異なり、冬には葉が枯れてしまう。しかし多くの≪落葉樹≫とも違い、春のはじめに芽を出すのではなく、春の終わりに芽を出し始める。ほとんどの木が、春が来たことを告げているのに、いちじくの木は、芽を春の終わりに出し、夏が近いことを告げる。従って収穫の時期は、つかの間である。イエスは、≪主の来臨≫は、この≪いちじくの木≫に似ているというのである。つまりその時期、徴等は、定めがたいのである。だから≪用意≫が必要である。

 Ø   キリスト者にとって、≪終末≫とは何を意味するのであろうか? それは、≪世の終わり≫、≪   裁きと回復≫、≪破局≫とかと言ったことよりも、≪世界宣教≫への召しである。時は迫ってい   るので、世界の隅々にまで、宣教しなければならないことの緊急性である。それが完全に果た   し終えた時、はじめて世の終わりが来る。それこそが、今日のテーマである。そして信じるとは   、いつも苦難、試練と隣り合わせであるとのことである。それが、宣教することへの役割の、一    部である。イエスは、決して、選ばれる人、選ばれない人の二分法を強調していない。むしろ、   神の救いの素晴らしさを、一時も早く、人々に宣べ伝えなければならないこと、それは急を要    していることを語っている。






< 11月20日のメッセージ >

       ≪ 赦すとは、忘れ去ること ≫

Ø   【【 されこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。】(ルカ23:33) 
 当時の十字架刑の、詳しいやり方については、分からないが、特に重罪を犯した人間の極刑であった。しかも極めて残酷な刑罰であったようだ。イエスは、その犯罪人と同列に並べられ処刑された。その姿はあまりにも無残と言う他ない。<わたしは虫けら、とても人とは言えない。人間の屑、民の恥。>(詩編22:18)

Ø   【 その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』】(ルカ23:34)
 ルカだけが、十字架上のこの言葉を載せている。しかも一番はじめにである。そしてこの言葉は、<祈り>である。ルカでは、イエスが重要な場面に出会う時、祈っている。例えば、イエスの洗礼に際して。(ルカ3:21) あるいは、十二使徒の選びの時。(ルカ6:12) 事ここに及ぶと思われる、大切な時に、イエスは祈っておられる。

Ø   イエスは、十字架に架けられる時、<赦し>を祈った。それは極めて重要なテーマである。何故なら、イエスは、神の子として、人間の罪を赦すために来られたからである。それこそが、<救い>である。イエスは、この断末魔の時、<赦し>を祈られた。それは、イエスの歩みの、総括と言える。人の罪を赦すことほど、難儀な技はない。しかもそれは、人間の愛憎に深く絡んでいるから。赤の他人の罪は、いくらでも赦せる。他人事だから、しかし身近の人の罪は赦せない。無限地獄とは、<赦し>のない世界のことであろう。

Ø  この無限地獄に、私たちは、生きている。そこから這い上がる方法は、イエスの十字架上の<赦し>にすがるしかない。イエスは、実際、この十字架上の<赦し>で、誰を対象にしたのであろうか? ユダヤ人のためか? あるいはロ-マの兵士のためか? ≪自分が何をしているのか知らない≫との言葉は、ローマの兵士に適用するのが相応しいかもしれない。しかしこの一連の事件を通して、一番の加担者は、民衆である。何故なら、ピラトの法廷で、イエスは、無罪と判断された。ヘロデも同様であった。そして最後に、イエスを釈放するか、バラバかの選択を、民衆に委ねたからである。そして民衆は、バラバではなく、イエスを<十字架につけろ>叫んだ。

 

< 11月13日のメッセージ >

≪ 形あるものは、滅びる ≫

Ø   【ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』】(ルカ21:5) 
 この記事は、明らかに、ローマ皇帝が、神殿を破壊したことに言及している。AD70に、いわゆる<第二神殿は>は、崩壊する。この以前にヘロデが改修したので、豪華絢爛な建物であった。この出来事に関連して、イエスは<世の終わり>を予告する。

Ø    実際、当時イスラエルは、数々の破壊行為で、痛み付けられていた。例えば、AD26に、ロー  マ総督ピラトは、エルサレムに、ローマの国旗を掲げた。彼は、ローマの威信を示そうとした。
  しかしそのことは、ユダヤ人の感情を逆なでした。もっと酷(ひど)いことは、ローマ皇帝カリグラ   は寄りによって、自分の像を神殿に配置した。俺を拝めと言わんばかりに。このことは、ユダヤ   人を侮辱した。更に、彼らの反抗心を煽ることとなった。このような背景から、<終末>観が生ま  れた。

Ø   77節の、<そのことはいつ起こるのか、そしてどんな前兆があるのか?>との、弟子の問いは、<世の終わり>が切迫していることの表れである。イエスは、幾つかの前兆を語る。①、戦争とその噂。②、地震、災害、疫病が起こる。③、迫害。④、身内からの裏切り。イエスは、結論で、何が起こってもうろたえてはならない。何故なら、み言葉、知恵を通して、弟子たちを守ると約束している。
忍耐によって、あなた方は命を勝ち取りなさい。】(21:19)と最後に命じる。” Stand firm, and you will save yourselves.”
<忍耐>は初代教会の、尊い徳であった。迫害に耐えるためである。

Ø    旧約の時代に、神殿奉献で、ソロモンは、祈った。神殿は、神を入れるには、あまりにも小さすぎる。否、神は、神殿などには、住まわれないという。ではなぜ神殿なのか? 
ソロモンは祈る。<しかし神よ、夜も昼も、この神殿に御目を注いでください。何故なら、この場所で、あなたが礼拝を捧げるようにと定めたのだから。>(列王上8:29) 
結局ソロモンは、神は、神殿などには住まわれないが、そこで、人々が礼拝し、祈る場所だから、それらに耳を傾けてくださいと語る。罪人の祈りを聞き届けてくださいと祈るのである。










< 11月6日のメッセージ >

≪ 時の流れに身を任せ ≫

Ø  【 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄ってきて、イエスに尋ねた。『先生、モーセは私たちのために書いています。ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、跡継ぎをもうけねばならない』と。】(ルカ20:27) 
 この話は、≪死後の復活≫があるかどうかの問題と要約できる。サドカイ派は、復活を信じなかった。その根拠は、モーセ五書に、それが記していないと言うのだ。彼らは、殊更モーセ五書を重んじる。

Ø   一方、ファリサイ派は、復活を信じていた。彼らは、聖書全体を重要視し、特に、ダニエル書に、≪永遠の命≫に関して記述が出てくる。この書は、BC2世紀頃に書かれた。この時期、シリアの王は、アンチオコス・エピファネスで、大々的に、ユダヤ人を迫害した。それで、この書には、今の苦難に耐える者は、≪永遠の命≫を得ると記してある。パウロは、元々ファリサイ派であったので、復活を信じていた。そのことが、彼の晩年の裁判の時に、表れてくる。(使徒23:6~)

Ø   サドカイ派の質問は、イエスに答えを期待しているというより、自分たちの正当性に対して同意を求めている。彼らの持ちだした論拠は、≪レビラート婚≫という制度であった。この婚姻制度は、申命記25:5に表れてくる教えで、本来は、≪家名を存続≫させることから考えられた制度であって、当時の、村社会を持ちこたえて行くための歯止めとしての制度であった。しかし自分たちの正当性を主張するためには、材料は何でもよかった。恐らく、イエスの時代、≪復活論議≫が盛んに行われていたのであろう。

Ø   【 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。全ての人は神によって生きているからである。】(ルカ20:38)
  旧約外典に、これと似た言葉が出てくる。<彼らは信じている。父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブのように、死んだ者の神ではなく、生きた者の神を。> イエスの、サドカイ派への、結論である。彼らは、<復活>、<永遠の命>を興味半分に聞いてきた。もっと切実なこととして考えねばならないと指摘している。むしろ、信仰は、今のこと、自分のことが重要であると。人ごとのように、扱うべきことではない。現在のことの積み重ねの上に、<復活>あるいは<死>があると主張している。











< 10月30日のメッセージ >

               ≪ 恵みのみ ≫

 Ø   【 さて、イエスはエリコに入って、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名  の人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。】(ルカ19:1) 
   イエスは、エルサレムへ行く途中、エリコによられた。通り過ぎる予定であった。” Jesus went   on into Jericho and was passing through.” ところがイエスを一目見たいという群衆に囲まれてし  まった。しかしイエスは、自分のペースを落とすつもりはなかった。日が暮れないうちに、目的地  に辿り着きたいと思っていた。

Ø   【 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。】(ルカ19:3) 
 ところがここで、事件が起きた。ザアカイが現れたのである。彼は、イエスを一目見たいと切望した。しかし背が低いのでできなかった。恐らく、彼は、社会から嫌われ、つまはじきにされていた。何故なら、人々が忌み嫌う<徴税人>であったから。彼は、一種の売国奴であった。そのような人間は、社会に受け入れては貰えなかった。

Ø   【 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、イチジク桑の木に登った。そこを通られる所だったからである。】(ルカ19:4)
 走る、木に登るなど、当時の大人がすることではない。恥ずべきことであった。ここには、ザアカイの熱意の強さが記されている。何が何でもお会いしたいと思ったのである。<ザアカイの物語>は、決して子供のためにだけ、記されたお話ではない。ここには、イエスに出会って変えられた生きた人間の姿が語られている。

Ø   今日は、<宗教改革主日>である。ルターは、数多くの著作を残したと言われる。その中でも、たくさんの手紙を書いた。そして多くが、悩める人々に当てた手紙である。その中のいくつかを紹介しよう。≪神は、我々の苦しみを愛し、同時に嫌う。神は、苦しみが祈へと向かうならば、好ましいと考え、それが失望へと向かうならば、嫌う。≫ 信仰において、試練は、人を両極端へと導くのである。≪主は、苦しむ者の、静かな溜息をも聞かれる。≫ 神の深い慰めを、彼自身がたびたび経験したからこそ言える言葉である。≪サタンが人を襲うとき、律法は何も益しない。つまり、自分にある確信、力に頼ってはならない。サタンが最も嫌うのは、キリストに信頼することである。













< 10月16日のメッセージ >

≪ 祈りの効用 ≫

 

Ø   【 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。】(ルカ18:1)
 イエスが、たとえを語るのに、前置きを話すのは珍しい。恐らく重要なことなので、注意深く聞くようにとの示唆であろう。≪祈り≫は、信仰生活で、最も重要なことである。しかし祈りは、また誤解に取り囲まれている。何故なら、祈っていても、答えられない祈りが多いから。途中であきらめてしまうのである。イエスは、だからがっかりしないで祈れと言う。

Ø   【 ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめ   がいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、私を守ってください』と言っていた。】(ルカ   18:2) 
    この裁判官は、神を信じず、人をも信用しなかった。彼を動かす唯一の方法は、賄賂しかな   かった。ところが、やもめが、この悪い裁判官のところに来て、しきりに願ったのであった。普通   なら簡単にあしらわれるのが関の山である。しかしどうゆう訳か裁判官は彼女の訴えを聞いた

Ø    当時、やもめは、無知、無力の象徴であった。(出エ22:21) そして旧約全体で流れている   考えは、彼らが社会的弱者である故、孤児、やもめへの手厚い保護である。≪孤児の権利を   守り、やもめの訴えを弁護せよ≫と記されている。同時に、彼らは、常に立場的に弱いので、   だまされたり、まともに扱われないことが多かった。恐らく、このやもめも同様な扱いを受けたの   であろう。しかし彼女は、ひるまなかった。そこが、この女性の違いである。多くは泣き寝入りし   た。しかし彼女は負けなかった。それが彼女の、信仰であった。

Ø     この裁判官は、恐れた。何をか? それは恥を受けることを恐れた。中東の文化は、≪恥の   文化≫と言われる。何が正しいかよりも、どうしたら恥を避けることができるかを、重要なことと    考えた。だから、彼らは、≪彼は恥知らずだ!≫と言われることを非常に怖がる。<彼らは忌   むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気づかない   。>(エレミヤ8:12) やもめは、裁判官の弱点を良く知っていた。そして遂に裁判官は、やも   めの主張を取り上げた。このように祈りは、必ずや聞かれることを、イエスは語られた。そして、   神は、人間が、苦難の中から、祈ることを喜ばれることも。

<10月9日のメッセージ >

≪ 感謝 ! ≫

Ø   【 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。】(ルカ17:11) 
 これから記される、<10人の重い皮膚病>を癒す物語は、ルカにしか載っていない。当時重い皮膚病に罹った人たちは、宿営の外(レビ13:46)に住まなければならなかった。つまり彼らは、汚れた者として、社会の除け者扱いをされた。一つは、感染を恐れてであるし、一つは、<神の罰>と見なされた。

Ø  【 ある村に入られると、重い皮膚病を患っている10人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんで下さい』と言った。】(ルカ17:12) 
 イエスが村に入られると、すぐに、10人の重い皮膚病の人と出会った。彼らは、イエスに助けを求めた。彼らは、イエスが誰であり、癒しのために来られていることを知っていた。イエスは、彼らに、祭司のところに行って、体を見せなさいと言われた。それは、旧約に記されている規則に従ったのである。祭司に見せ、しかるべきところで身を洗わなければならなかった。

 Ø   しかし彼らは、祭司に見せに行く途中で癒された。つまり、元の体に戻ったのである。今日の記事は、これからがむしろ重要なテーマを抱えている。
 【
 その中の一人は、自分が癒されたことを知って、大声で神を讃美しながら戻って来た。そしてイエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。】(ルカ17:15) 
 恐らくこのような背景が支配していたであろう。9人は、ユダヤの祭司に見せようとした。そして彼らは、エルサレム神殿にも仕えていた。彼らは、当然、イエスの評判を聞いていたであろう。ところが、サマリア人は、そのことを全く気にしていないので、何の気兼ねなくイエスにひれ伏した。

 Ø   <讃美の歌人-明石海人についてー>(清水氾著)という小冊子がある。
 明石海人は、沼津市出身の歌人である。若い時にハンセン氏病に罹り、その後、長嶋愛生園で生活することになり、そこで多くのキリスト者と出会い、洗礼を受け、多くの歌を残す。この本は、彼が、どのように讃美の歌人へと変わっていったかを見つめている。
 ≪怖れこそひさしかりしか盲いての今朝はしづけき囀りを聞く≫、これは代表的な歌である。病が進み自らも失明になった時に詠んだ歌である。重い運命を迎えても、なお平安を記している!!





< 10月2日のメッセージ >

            ≪ 信仰を増してください ≫

 Ø   【 イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸  である。』】(ルカ17:1) 
   イエスは、弟子に革命的教えを説く。それは、罪の力が彼らを支配するが、それを引き寄せよ  うとする人を批判する。<つまずき>とは、種々考えられるが、信仰を失わせようとする力のこと  である。イエスは、まず、彼らにそのような人にならないように警告する。

Ø  一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。】(ルカ17:4) 
 マタイは、七の七十倍赦しなさいとある。” seven times ”と “ seventy times seven ”とはだいぶ違うが、同じようなことである。何故なら、人が犯した罪を赦すことは、それほど難しいからである。ルカの方が、現実的に記した。マタイは、理想的倫理が語られている。

   今日のTextのテーマは、<赦し>である。キリスト教の中心的テーマである。しかし現実は、な   かなかできないことが多い。ではどうしたらそれができるのだろうか? その秘訣をイエスは、私   たちに教えている。
   【 
使徒たちが、『私たちの信仰を増してください。』と言った時、主は言われた。『もしあなた方   にから種一粒ほどの信仰があれば、この桑に木に、抜け出して海に根を下ろせ、と言っても、   いうことを聞くであろう。』】(ルカ17:5,6)
   弟子は、自分たちの信仰を強めてくださいと願った。しかしイエスの答えは、彼らの偏見を取り   除こうされた。
 

Ø  弟子たちの考える<信仰>とは、強い、弱い、大きい、小さいと、いわば人間の持っている力としての信心である。
確かに、我々も何気なく、あの人は信仰が立派だとか、あの人の信仰は薄いとか言う。
 しかしイエスは、ここでカウンター・パンチを弟子にくらわす。何故なら、信仰とは、人間の力や能力とは、全く違うものだからである。信仰は、理想や幻想とは違う。ましては人間が元々持っている力のようなものではない。信仰を人間に照準を合わせると、矛盾が起こる。神に照準を合わせなければならない。そうした時、たとえ我々の乏しい信仰もよみされるであろう。








<9月18日のメッセージ >

              ≪ 不正をしてまで ≫ 

Ø   【 イエスは、弟子たちに次のように言われた。『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると告げ口する者があった。』】(ルカ16:1) 良く言われる<不正な管理人>のたとえである。このたとえは、福音書の中でも実に難解と言われている。これを理解するため、まず当時の文化的背景を考えねばならない。当時、金持ち、つまり主人は、仕事のほとんどを、管理人に任せていた。この金持ちは、その社会において、かなりの信頼を勝ち得ていたし、賢い人であった。当然、管理人に対しても、十分な注意をしていたであろう。

Ø  当時、慣習として、収穫期に当然支払われるべき、サラリーに加えて、個人の采配で、チップのような特別の給金を貰うことができた。いわゆる<袖の下>” under the table ” のような仕組みがまかり通っていた。今日のように、それがすぐに違法であると決まれば、刑務所生活を余儀なくされる時代とは異なっていた。ある程度の不正には目をつむっていた。それにしても、この管理人は、無駄使いがばれ、首になるのを恐れて、更に不正を重ね、借主の帳簿を誤魔化し、不正横領を働いた。

Ø   【 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている。】(ルカ16:8) 主人は、まことに気前のよい人であった。気前良いことは、中東の世界では、賢い人のとる態度であった。何故、主人は、管理人のやり方を褒めたのであろうか? 不正そのものを褒めたのではない。自らが、万事休すとなった時、自分の未来を考えて行動したことに感心したのであろう。管理人にとって、この仕事を奪われたら、この社会では生きる術を失うことにつながる。

Ø   そのような危機意識から、出た行動であった。それを主人は、褒めたに違いない。彼は知恵を巡らし、自分を守るため、あらゆる手段を講じようとした。それが、主人を動かした。英語では” Shrewd ” と表現されている。それは、悪賢いとか、巧妙とかの意味はない。<賢さ>とは、むしろ好ましい表現である。前向きに捉えられている。










【9月4日の福音の要点・指針】

断捨離

 

Ø  【 大勢の群衆が、一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『 もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、姉妹、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。』】 (ルカ14:25)

 イエスは、エルサレムへ入場するまでの間(ルカでは10章が割かれている)、弟子の教育に費やした。ことにもイエスの弟子になることの意味を懇切に語られた。何故なら、疑いもなく、多くは、イエスをローマからの支配を終わらせ、解放してくれる、メシアと考えていたからである。 


イエスは、人々が考えているメシア像とは、違った姿で来られた。従って、イエスへの忠誠は、父母へのそれ、妻や子供へのそれと、入れ替わることが示唆された。だからと言って、家族の責任を無視してよいと語ったのではない。イエスが人生の意味を定め、また価値を決めるからであるイエスこそ、我々にとって、それほどまでに大きな存在なのである。イエスこそが、我々にとって、決定的なのである。

Ø  自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。】(ルカ14:27) 厳しい言葉だと思う。誰が、イエスに付いて行けるかとも考えてしまう。我々のほとんどは、全くいい加減な仕方でしか、従っていないからである。誤解してはならないのは、私たちの人生を通して、重い十字架を負えとは、言っていない。ここで≪十字架を負う≫とは、イエスの足跡に従うことである。そのことで、私たちの生き方が、二つの大きな道に分かれる。 

  イエスの足跡に従うとは、二つのチョイスに分かれるのである。一つは、私たちが、他に仕えること  によって、神へと仕えるか、あるいは、自分自身に仕えるか、どちらかを選ぶことになる。サタンは  、この世に、死への道に仕えることを望んでいる。モーセは、イスラエルの人々に向かって、こう叫  ぶ。神の大いなる働きを見ても、それを識別する、こちら側の認識が必要であると。それは、<悟  る心、見る目、聞く耳>(申命記29:3)である。そしてそれは、ただ神からのみ授けられると。 こ  の方法が、授けられることを祈りながら歩みたい。






【8月14日の福音の要点・指針】

言葉を盗む者

 Ø  【 小さな群れよ、恐れるな、あなたがたの父は、喜んで、神の国をくださる。】 (ルカ12:32)

  弟子の群れは、ほんの一握りの<小さな群れ>でしかなかった。群れの小ささは、同時に自分の小ささにも通じている。だから教会でよく見られる、<虚勢>が横行しやすい。つまり無理して威張るのである。イエスはここで、そんなことをする必要はないと勧める。ではイエスは、小さいことを気にするなと言っているのであろうか? 

Ø    気にするなと言っても、人間は、小ささを心配するものである。何か他より、劣っているように考えるからだ。イエスは、自分も小さいと感じる必要がないことを語る。そしてむしろ、<神の国>に入れることの約束に目を向ける。どでかい祝福が待ち受けていると言うのだ。確かに、そのことで思わぬ抵抗や屈辱を受けることがある。小さいが故の、反発である。それは約束の<神の国>に比べれば取るに足りない。

Ø   【腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。】(ルカ12:35) これは、<終わりの日>に際しての警告である。あるいは励ましである。しかし普段の生活を大切にすることは言うまでもない。<腰に帯を締め>とは、約束の地を旅するのに、自由に歩けるため、腰の周りに衣服を捲し上げることを指している。また<ともし火>とは、夜に、明かりを灯しているようにとの意味である。主イエスの再来に備えることを指している。ここで目を留めたいのは、それが<祝宴>に例えられていることである

Ø    イエスは、このことで、神の絶対的恵み、素晴らしさを強調している。この食事は、天で行われる祝宴である。彼らがここで経験することは、地上での経験とは全く反対である。つまり主人が、給仕をしてくれるのである。そんな祝宴があろうか。イエスは、結局次のことを示唆する。我々が住んでいる世界は問題が多い。絶えずトラブルを抱えている。そして昔の良き日は再び戻ってはこない。その時、神の基準に従う<善>があるであろうか? イエスは、決して、富を築くことでの善き生活へと、励ましたりしない。むしろ僕として、彼に従うことを求める。何故なら、神は、最後の日に、我々がどれだけ富を蓄えたかを尋ねはしない。


 

 

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