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新しい視点で○○○を活動する Numadu Lutheran Charch

音声メッセージ



< 7月16日のメッセージ >

≪ 蛇のように賢く、鳩のように素直に ≫

&  【 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込みようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。】(マタイ10:16) イエスは、ここで処世術を弟子に授けているのだろうか? 彼らは、この先困難を迎える。それは想像以上のものである。反対や抵抗はもちろん、迫害までが、彼らを襲うというのだ。それに対処するために、このようなかなり大胆ともいえる、教えを授けたのであろう。旧約では、≪蛇≫は、良い意味では使われない。エデンの園で、エバが蛇に誘惑されるが、≪蛇≫を、口語訳では、≪狡猾≫と訳している。

 確かに、英語の訳でも、Now the snake was the most cunning animal that God had madeと表現されている。この背景には、終末論的思想が横たわっている。神の国が、到来するためには、困難や迫害は、その前触れである。何か思いがけない試練に出会ったように考えてはならない。苦しみは、宣教に付随的なものではなく、宣教が試練をもたらすのである。イエスは、ここで、弟子を宣教に遣わすにあたり、心構えを授ける。彼らには、戦いのための武器を持たない。人を動かす力を持っていない。あるのはただ神の言葉だけである。

&  【人々を恐れてはならない。】(マタイ10:26) 人間は、色々なものを恐れる。人間の基本的な、生来の、怖れは、≪別れ≫による≪分離≫の恐れだと言われる。だから人は、孤独を恐れる。この恐れが、人を更に孤独をさせ、命から引き離し、神からも引き離す。神々と言われる存在は、怖れを持たない。あらゆる変化から自由であるから。人間も同様であるならば、自由であるし、怖れがなくなる。しかしまったく意味のない人生を送ることになる。何故なら、人を愛する必要がなくなるから。我々は、神を信じることで、怖れから解放される。

&  【一つの町で迫害されたら、他の町に逃げて行きなさい。】(マタイ10:23) 宣教が上手く行けば、順調であるが、逆であるならば、悲惨である。重苦しい雰囲気になる。宣教がはかどらない教会は、重い雰囲気になる。挙句は、人数ばかりを気にすることになる。教会は、いつも危機に面している。おおらかな視点から、望みたい。イエスは、たとえ困難を迎えても、玉砕を求めてはいない。神信頼に立つことを求めておられる。最終的に信頼すべきは、人間ではない。人間は裏切る。しかし神は裏切らない。何故なら、神は、≪髪の毛≫まで数えておられる方だから。









< 7月9日のメッセージ >

≪ 天才と使徒 ≫

*   【 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。】(マタイ9:35) ここは、8,9章の要約である。そこには、イエスがガリラヤの町や村を訪ね、会堂で教えたことが記されている。特に、マタイは、イエスが教えたことに力点を置く。イエスは、説教よりも、教えに力を入れたのである。違いはどこにあるか? それは、教えには、相手の考える力が大きく求められる。相手から何の反応もなければ、教えは成立しない。両面通行において、教えというものは成立する。

*   【また、群衆が飼う者のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。】(マタイ9:36) イエスは、人々が疲れ切って、助けがない故に、悲しんだ。つまり人々は、自分たちが何をすべきかを知らなかったのである。その様は、丁度、飼う者のない羊のように、惨めな姿をしていた。それは次のことを指摘している。人々が政治的指導者たちによって、利用され、同時に、宗教的指導者にも、ほとんど益するところがなかった。そこで、イエスは、弟子たちに、彼らを覆っている、多くの霊的必要を、神が用意していることを促し、励ました。

 *  そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』】(マタイ9:37) とても有名な言葉である。私は、聖書学院時代、良く宣教師から、この言葉を聞かされた。何度も何度も聞かされた。今思うと、<皆さん、どうか主の働き人になってください。>とのお誘いだったのかもしれない。そうだろう、彼らは遠い異国にきて、主の宣教に励んでおられたのである。困難は一入であったであろう、同時に喜びも大きかったに違いない。そして共に預かりましょうとの言葉であった。

マタイ10章に入ると、12人の弟子を選び、派遣する場面に移る。マルコやルカには、その選別の意図が記されているが、マタイは唐突である。多分それは、旧約の12部族との関連が強い。12の弟子は、〖使徒〗と呼ばれる。その意味は、〖遣わされた者〗との意である。それは、イエスが、教え、行ったことを引き継いで行く人である。決して自らの力や努力で、遂行して行く働きではない。キルケゴールは、天才は、自らの能力によって立つが、使徒は、神の力によって立つとの言葉を残している。〖使徒〗は、すべてをイエスに倣って生きる者のことである。<7月2日のメッセージ >






7月2日のメッセージ


                       ≪ 悪人正機 ≫

*   【 イエスはそこを立ち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がって、イエスに従った。】(マタイ9:9) イエスが、カファルナウムで、中風の人を癒された記事が、この前に記されている。人々は非常に驚き、衝撃を受けたことが見て取れる。さもありなん、病人や、障害を持つ人は、当時、社会からつまはじきされていた。誰も相手にしなかったのである。しかしイエスは違っていた。彼らを優先的に優遇したのである。そして次に、徴税人が弟子として招かれるのである。

*   〖徴税人〗は、人々から忌み嫌われていた。何故なら、彼らは、ローマに仕える手先のような存在だったから。徴税人は、ローマへ税金を納めるために、ユダヤ人があえて選ばれ、その任に就かされた。ただでさえ、国に税金を納めることは、人々の反発を招きかねないことである。まして、だれが、敵であり、為政者であるローマに、税金を好き好んで納めるであろうか?しかし彼らには、特典が与えられた。それは、自分の裁量で、ちょろまかすことができた。だから彼らは多く、金持ちであった。マタイもその一人であった。

〖弟子の召命〗の記事は、どれも単純で、短い記事である。ペテロがイエスに招かれた出来事も同様である。【イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう。』と言われた。するとすぐイエスに従った。】(マタイ4:18) ここにも何ら人間的な描写は見られない。彼らの決意とか、準備とかは一切記されていない。不思議である。しかしここに〖弟子召命〗の特性が表れている。

イエスの弟子になるということは、こちら側の能力とか、資格は問題ではない。イエスの弟子になる資格は何か? それに相応しい、人間性が必要だと考えられる。豊かな人間性がなければ、イエスの弟子になることはできないと考える。短気で、器の小さい人間が、イエスの弟子になったら不幸である。伝道の妨げにさえなる。しかしもしそうであれば、イエスの弟子には誰もなれない。イエスの弟子になるとは、イエスの招きに応じることである。すべてをイエスが、備えてくださるのである。







< 6月25日のメッセージ >

≪ 結果を出せなくても ≫    *富士教会にての説教です。

(   【 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を実らせることはないし、悪い木が良い実を実らせることはない。】(マタイ7:17) 人間の言葉と行いとの関係は、その人の本質を表す。そのことが、≪木と実≫との関連で宣べられる。木が、その実を実らせることで、木の姿が示される。つまり、木はその実によって、何の木かがはっきりする。≪木はそれぞれ、その実でわかる。茨からイチジクを取ることはないし、野ばらからブドウを摘むこともない。善人は良い心の倉から良いものを取り出す。≫(ルカ6:44)

(   ルカは、≪木と実≫との関係をもっと、明確に語っている。この記述は、イエスが≪山上の説教≫を語る、結論として語る、たとえである。しかもかなり鮮明なたとえと言える。≪山上の説教≫では、かなり高度な教えが宣べられた。例えば、自分の義を見せるために、人前で大げさに振る舞うことを、≪偽善者≫とまで呼んだ。そして≪祈り≫、≪施し≫等が例に出され、施しをするとき、≪人に褒められるため、会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らすな。≫(マタイ6:2) なぜそのような行為がいけないのか? 

こそこそと行うより、よほどましではないかと思うが? いずれにしても、イエスは、口先だけ、あるいは心にもないことを語ったり、行ったりすることを禁じている。≪心からあふれ出ることを、口が語るものである。≫(ルカ6:44) “ For the mouth speaks what the heart is full of ” さらにイエスは結論で、≪二人の建築家≫のたとえを語る。【それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができる。】(マタイ7:24) このたとえは、一見して、比喩と見えるが、両者を対比的に描くことで、≪挑発的≫効果を狙ったのか?


(   このたとえは、≪賢いと愚か≫、≪岩と砂≫、≪行うと行わない≫、≪倒れないと倒れる≫との対比が、たとえを効果的に描いている。イエスが、何を言おうとしているのか、明確である。誰も愚か者にはなりたくない。≪賢い人≫になりたいと願う。しかし≪行う≫、≪実≫とは何を意味するのか? 我々が通常言う、≪結果≫、≪成果≫を言っているのか? ≪成果≫が出ないと、失望する。では信仰の世界での≪実≫は、≪結果≫のことなのか? 否である。≪悔い改め≫こそが、実である。






<6月11日のメッセージ >

≪ 山に登って ≫

ö   【 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。】(マタイ28:16) マタイ福音書の最後の記述である。イエスが天に帰られる直前、弟子との最後の別れである。いよいよイエスが、弟子を≪世界宣教≫へと派遣する。マタイ特有の記事である。場所が≪山≫というのが、印象的である。なぜわざわざ≪山に登って≫、イエスは弟子に語られたのだろうか? マタイでは、≪山≫は、単に地理的場所ではない。神学的意味がある。

ö   ヨハネでは、復活されたイエスは、≪部屋≫で、弟子が集まっているところに、現れる。それに比し、マタイでは、殊更≪山≫が、強調される。例えば、≪山上の変容≫が起こった場所は、≪高い山≫であった。【 六日の後、イエスは、ペテロ、そしてヤコブとその兄弟ヤコブを連れて、高い山に登られた。】(マタイ17:1) あるいは、もっと有名な話≪山上の説教≫も、やはり≪山≫で語られている。<イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちの近くに寄ってきた。>(マタイ5:1) またイエスは、祈るとき、山に登られている。

  それ故、マタイ28:16で、イエスが、<山に登って>と言及しているのには意味がある。旧約との関連で、考えると、やはり<山>は、モーセに与えられた≪十戒≫の付与が、≪シナイ山≫であることを忘れてはならない。それは、≪山≫が、特別な場所であることを意味している。即ち、≪山≫は、怖れと聖なる場所であった。昔、イスラエルでは、神は、≪山の神≫と呼ばれた。それは≪田の神≫との対比で、そう呼ばれたのである。≪田の神≫は、バアル礼拝に象徴されるように、≪豊作の神≫であった。しかし≪山の神≫は、人間が近づくことができなかった。

【 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。】(マタイ28:17) 彼らは、復活されたイエスに会い、喜び、そして礼拝した。しかし疑う者もいた。これはどうゆう意味であろうか? この描写には、初代教会の信徒たちの姿が、良く描かれている。復活の主に、出会ったことが、彼らの再出発となった。しかし≪疑う者≫もいたとは、どうしてであろうか? 復活の主に出会えば、不信仰も吹っ飛ぶはずなのに! しかし事実は違っていた。地上では、完全な信仰は見られないということか?






<6月4日のメッセージ >

        
               ≪ 飢え、渇き ≫

ö   【 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『 渇いている人は誰でも、わたしのところにきて飲みなさい。』】(ヨハネ7:37)≪祭り≫とは、≪仮庵の祭り≫のことである。この祭りは、ユダヤ三大祭の一つで、9月か、10月に開かれた。それは、イスラエル人の<荒れ野での生活>を思い起こす祭りであり、そのクライマックスは、水が、シロアムの池から、神殿へと運ばれる。それは、荒れ野での生活の時、<岩>から水が出てきたことを思い出させる。この出来事は、民数記20章に詳しい。

   ö  この事件は、<メリバの水>との名で有名である。<イスラエルの人々、その共同体全体は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。さて、そこには共同体に飲ませる水がなかった。彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。>(民数記20:1) 実に生々しい記述である。民の激しく言い寄る勢いが伝わってくる。そこまでしなくてもと思うかもしれないが、彼らにとって、<死活>問題であった。人は死を予感させるような事件に出会うと、正常ではいられなくなる。今まで溜まりに溜まった、不満、不平が一気に出てくる。彼らにとって、そのような出来事であった。

 ö   そこで、モーセが主に執り成すと、主は、<あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に、共同体を集め、彼らの目の前で、岩に向かって、水を出せと命じなさい>と言われた。モーセは、この民に対して、どのように臨んだのであろうか? 深い同情を寄せて、取り継いだであろうか? 否である。<反逆する者らよ、聞け、この岩から、あなた方のために水を出さねばならないか?>と表現している。彼はしぶしぶ神の命に従ったのである。この事件は、後世に<メリバの水>と呼ばれ、イスラエルの歴史に残る、汚名となった。しかしイエスは、<生きた水>と自らを語る。

【 わたしは渇いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。】(イザヤ4:3) イエスは、霊的に渇いた人に、命を与える象徴での、命の水である。サマリアの女に、イエスは、≪この水を飲む者はだれでもまた渇く≫(ヨハネ4:13)と言われた。人が渇きをいやすには、イエスの与える水を飲むしかない。今日は、≪ペンテコステ≫である。テーマは、やはり≪命≫である。≪神の霊≫の働きは、人に命を与える。







<5月28日のメッセージ >

                   ≪ 心の目を開く ≫

ó   【 わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせたことばは、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩編とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。】(ルカ24:44) イエスの≪昇天≫の出来事が記されている。イエスが復活されてから、40日経って、イエスは昇天された。その期間、イエスは十字架と復活を、弟子たちに懇切に説明された。その特徴は、それが聖書に記されているという事である。何も特殊な、奇想天外な出来事ではなく、聖書を良く読めば理解できるのである。

ó  何故40日間もの長きに渡って、弟子を指導しなければならないのであろうか? それは、はじめ弟子たちは、イエスを、イスラエルが長い間、ダビデ王の再来を求めてきたが、その王の実現だと誤解したからである。しかしイエスは、全く違う姿で、王になられた。それは僕の姿で、人に仕えるために来られた。イエスは、彼らを諭すため、決して、彼らの十字架を前にしての行動を、責めたり、咎めたりしなかった。むしろ彼らに、聖書に返ることを促した。つまり十字架と復活が、聖書の成就であることを教える。

ó   【 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『こう、記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から、よみがえる。そして、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。』】(ルカ24:46) “ Then he opened their minds to understand the Scriputures. ”≪心の目≫とは何でしょう? 心に目があるでしょうか? これはたとえである。パンチのきいたレトリックである。聖書の教えは、自動的に理解できるものではない。

ó   宗教心が厚い薄いも関係ない。苦労しているか否かでもない。言うなれば、神へと心を開き、聖書に耳を傾けねばならない。<もし私が、神が示されることを、見ようとしたいならば、目を閉じなければならない。人が神の言葉を知ろうと願う時、神は私を盲目にされる。神が、私が見ることができるため、盲目にされる。その時はじめて、私は、今まで知らなかった他のことが理解できるようになる。>(ボンヘッファー) ≪イエスの昇天≫で不思議なことがある。それは、イエスとの別れなのに、彼らは喜びに包まれていた事である。










<5月21日のメッセージ >

   

≪ 知られざる神 ≫

 

ó   【 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう、父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたと一緒にいるようにしてくださる。】(ヨハネ14:15) 今日は、二ヵ所の日課から学びたい。一つは、ヨハネ14:15から。<弁護者>とは何か? 直接の意味は、<聖霊>のことである。原語の意味は、文字通り、<弁護者>、<法定代理人>を指している。あるいは、<仲介者>、<慰め主>、<カウンセラー>を指す。英語では、He will give you another Helper, who will be with you forever.

ó  【 わたしの子たちよ、これらのことを書くには、あなた方が罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。】(Ⅰヨハ2:1) ここでは、イエスが、≪弁護者≫と表現されている。≪聖霊≫は、イエスの働きを引き継ぎ、書かれた言葉とサクラメントを通して、神の真実を知らせる働きをする。その働きの中心は、≪仲介≫、≪執り成し≫にあることが明確である。彼は、主イエスの影響と力に、人を結び付ける。世間での≪仲介≫は、うまくゆかない。中立を保つのは難しい。

    【 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点において    、あなた方は信仰のあつい方であると、わたしは認めます。道を歩きながら、あなた方が拝     むいろいろなものを見ていると、<知られざる神に>と刻まれている祭壇さえ見つけたからで    す。』】(使徒17:22) 今日取り上げたいもう一つの箇所である。パウロは、第二伝道旅行     の際、<アテネ>に立ち寄った。当時、アテネは、文化の中心地であった。いわゆる、<ギ    リシャ哲学>のメッカであった。ソクラテス、プラトン等の哲学者を出した。

ó   パウロのこの時の口調はいつもと違っていた。どこか気取った、あるいは気負った向きが強くみられる。さもありなん、最高の哲学者が生まれ、しかも優れた哲学者が学問の世界を支配していたからである。彼の自負が、この演説には、垣間見える。ところで、<知られざる神>とは何か? 名前がない神という意味である。何を拝んでいるかわからない。しかし物珍しいから祭壇を築いていた。恐らく、人間界の<不慮の事件、災害>を、神の怒りと考え、見逃してもらおうとの企てであった。パウロは、そこで本当の神を説く。 





5月14日の説教         ≪ 生きた石 ≫


ó 
 ヨハネ14章~16章は、≪イエスの別離の説教≫である。この種の長い決別説教は、他の福音書には見られない。旧約では、創世記49章の≪ヤコブの祝福≫が有名である。≪集まりなさい、わたしは後の日にお前たちに、起こることを語っておきたい。≫(創49:1) ヤコブには12人の息子たちがいた。彼は、一人一人に最後の言葉を語る。イエスも、ここで弟子たちに、別れの前に、つまり死を前にして、最後の祝福をする。その中身は、まず動揺しないこと、別離は一時のことで、再び戻って来ることを告げる。

ó   【 心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。】(ヨハネ14:1)イエスは、最後の祝福を、励ましから始める。心配しないように。気落ちしないようにと。別れを前にして、弟子たちは動揺した。当たり前である。師と仰ぎ、尊敬していた人との別れが近づいて誰が心騒がせないでいられようか? イエスの言葉は、単なる慰め、気休めであろうか? 多くの場合、私たちの励ましは、感傷か、あるいは逆効果になることがしばしばである。イエスの励ましはどうして、力があったのか?

ó  【 行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。】(ヨハネ14:3) イエスの励ましに力があるのは、自身の経験から生まれた言葉だから。そして何よりも約束が伴っていたからである。イエスと弟子との関係を、この言葉は指している。人間にとって、重要なことは、家庭、仕事、友人等あるが、最も重要なのは、<住まい>、<居場所>である。それが<安住の場所>であれば、何も言うことはない。イエスとの関係に於いて、私たちは、イエスに<安住の場所>を見出すのである。

ó   サンパウロ教会に、三浦久和さんと言う、教会の草創期から、中心メンバーであった人がいた。2008年、彼女の100歳の誕生祝いをした。その時、娘さんが、彼女の短歌を編集し、小冊子にした。≪私のカナンよ、ここは約束の地 真清水の乳 野イチゴの蜜 ≫全てのブラジル移民は、想像以上の苦労をしてきた。特に戦前移民は、耐えに耐えた。久和さんも例外ではない。その彼女が、やっとそこを≪約束の地≫と歌っているのが印象的である。 ≪みんなみの 十字星光る 天の下 しかと根をはる 日本移民百年 ≫









< 5月7日のメッセージ >

                       ≪ 門 ≫

Ë   はっきり言っておく、羊の囲いに入るのに、門を通らないで他の所を乗り越えて来る者は、盗人である。門から入る者が羊飼いである。】(ヨハネ10:1)
 これから幾つかのテーマがイエスによって語られる。まず≪門≫である。当時の羊小屋は、通常石壁によって囲まれていて、壁に開閉できる門が、設置されていた。そこには必ず≪門番≫がいて、盗人が入らないように見守っていた。従って、≪門番≫は重要な役目を担っていた。

 Ë   今日のText、全体のテーマは、何といっても、≪良き羊飼い≫である。羊の飼い方は、西洋   と中東では異なっていた。西洋の世界では、羊飼いは、羊の群れの背後について行く。時に  、犬を用いて、群れを導く。しかし、中東では、羊飼いは、羊の先頭を歩く。そして羊が分かるよ   うに、迷わないように、笛等の音を出し、羊を連れて行く。しばしば、二三の違った群れが交じ   り合うこともあるが、しかし問題は起こらない。羊飼いが元の道を進む時、彼らはいつもの呼び   声、音で彼らを呼び、お互いの羊たちは、自分の羊飼いに従う。

Ë  わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。】(ヨハネ10:11)
 ≪羊飼い≫のテーマは、旧約にたくさん、その姿が語られている。代表的なのが、詩編23である。<主は私の羊飼い。私には何も欠けることがない。> この詩を作ったのはダビデと言われている。彼は、イスラエルの二代目の王であるが、元々は羊飼いであった。彼が舞台に登場してくるのは、初代の王であるサウルを慰めるためであった。サウルは優れた王であったが、ある時から、悪霊に取りつかれるようになる。

 Ë   それで呼び出されたのが、ダビデであった。彼は竪琴を上手に弾いた。≪神の霊がサウル   を襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心がやすまって、気分が良くなり、悪   霊は彼を離れた。≫(サム上16:23) ダビデは、実に竪琴の名手であった。それ以来、サウ   ルは、ダビデを殊のほか重宝し、側近に抱えるようになる。ダビデは、更に武勇にも優れてい   た。その証拠に、ペリシテとの戦で、敵軍の勇士、ゴリアテを見事破ってしまう。彼の働きは順   風満帆に見えた。しかしやがて両者は仲たがいの時がやってくる。






<4月30日のメッセージ >

                 ≪ 疑い深い人間 ≫

¹   十二弟子の一人で、デドモと呼ばれているトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。】(ヨハネ20:24) 
 復活されたイエスは、同じ日の夕方、弟子たちが一堂に会していると、<安かれ>と言って、彼らの中に入って来られた。しかしその時、トマスはいなかった。彼が、復活のイエスを信じることができなかったのは、彼の性格が疑い深いということもあるが、弟子たちと共にいなかったことが、主な原因と言える。トマスは、ヨハネ11:16にも出てくるが、熱狂的、同時に理性的な性格である。

¹   【 ほかの弟子たちが、彼に『私たちは主にお目にかかった』と言うと、トマスは彼らに言った。『私は、その手に釘跡を見、私の指をその釘跡に差し入れてみなければ、決して信じない。』】(ヨハネ20:25) トマスは、現実的、実際的に考える人間である。彼の主張は、<見ないと信じない>と言うのはそこから来る。確かに、弟子たちは、復活の主が、彼らに現れたので、信じることができた。八日の後、同じように、イエスが、弟子達がいる所に現れ、トマスもいた。主イエスは、トマスに語り掛け、信じる者になりなさいと言われた。

¹   【イエスはトマスに言われた。『私を見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである。』】(ヨハネ20:29) <復活>は証明できない。だから私たちの感覚を超えている。この言葉は、後世にキリストを信じる人たちへの励ましである。復活を見たい、奇跡を見たいという願いは、誰しも同じである。しかし人間は、見たからと言って、果たして信じることができるだろうか? もっと重要なことが語られていると思う。復活は、見ないで信じるから意味がある。否見ないで信じるものなのである。見たとしても信じない者は、信じないから。

 

¹   <星の王子さま>と言う有名な作品がある。あらすじを簡単に言うと。主人公の王子は、小惑星からやって来た。王子は、色々な星を旅する。そしてどこか変てこな大人たちに出会う。最後に地球へやって来る。悲しくなって泣いている王子に、キツネがやって来る。キツネから、仲良くなるとは、そのものを大切なものだと考えることだと教わる。そしてキツネから<心で見なくちゃ、ものごとは良く見えないってことさ。肝心なことは、目に見えないんだよ。>との人生哲学を聞く。このことは、信仰の世界にも全く通じる考えだと思う。




< 4月16日のメッセージ >

           ≪ 石をわきへ転がし≫

¹  さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。】(マタイ28:1) 
 マルコ16:1では、女性たちが、イエスの遺体に香料を塗るため、朝早く、墓に向かったと記述している。マタイは、マグダラのマリアともう一人のマリアが、明け方に墓に向かったと書いてある。いずれにしても、彼女たちは、偉大なお方に、最後の勤め、弔いをするために墓に向かった。それは、香料を塗ることも含まれていたが、チャント(悲しみの歌)を唱和するためでもあった。

¹   マタイ27:66には、特に、墓の前に、大きな石が置かれていたことが記されている。しかも番兵が就いていた。イエスの遺体を墓に葬ったのは、ヨセフと言う人物であったが、ピラトは、わざわざ番兵を就けたのである。それは人々の噂が気になっていたからである。【すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。】(28:2) 彼女たちが、墓に近づくと、地震が起こり、天使が舞い降り、墓に立てかけてある石を転がした。女性たちは、はじめから分かって心配していたことであろう。

¹   彼女たちは、恐らくあまりの動揺と不安で、その石をどうするかなど考える余裕を失っていたに違いない。それこそこの石は、彼女たちの心が閉ざされていたことを象徴している。人間は、あまりの衝撃を経験すると、冷静な判断ができなくなる。しかし天使は、その大きな石をわきへ転がし、イエスの復活を伝えたのである。この描写は、復活を力強く語っている。復活、それはまず、天から伝えられた、我々悲しみと不幸で、あたかも心が石で塞がれているような人間への、メッセージである。決して人間が考え、作り出したような話ではない。

¹   【天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。』】(マタイ28:5) 復活は、天からの調べである。天使は、その役を担った。それは、神からの最後の、一回限りの調べである。復活は、四散した弟子を、再び集めた。そして彼らを立ち直らさせた。彼ら弟子たちは、大きな失敗をした。イエスの十字架を前に逃げたのである。どんなに慚愧の念があったであろう。その彼らを再び立ち上がらせた。しかしそれは、<復讐劇>のはじまりではない。復讐を超えていなければならない。それが復活である。






< 4月9日のメッセージ >

                 ≪ ゲッセマネの祈り ≫

ö   【それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネと言うところに来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。』と言われた。】(マタイ26:36) 
 今日は、<受難主日>である。Textは、マタイ26,27章全体が選ばれている。この長い聖書における<イエスの受難と十字架>を、音楽史上稀に見るぐらい美しく、見事に描いたのが、バッハの≪マタイ受難曲≫である。この季節になると聴きたくなる曲でもある。1727年の受難週の礼拝のために、バッハは作曲した。

ö   場所は、ライプティヒの聖トーマス教会であろう。彼が、教会のカントールを務めていたからである。礼拝のためとは言え、まことに長い演奏で,約3時間は優にかかる。しかしこの名曲も、当時の人はあまり評価できなかったようである。何故なら、たったの一回限りしか、演奏が行われなかった。この曲を世界的に有名にしたのは、それから100年後のこと、埃に埋もれていた楽譜≪マタイ受難曲≫を、再演した、メンデルスゾーンであった。それから、バッハ・ルネッサンスが起こり、今日のようなバッハ評価に繋がったのである。

ö   ≪ゲッセマネ≫は、今日では、正確に特定できない。恐らくオリーブ山の近くにあったであろう。そこでイエスは、真実の人間としての苦悩を経験された。≪初代教会≫は、キリスト論論争が盛んであった。キリストは、神の子か、それとも人間の子なのかと。その中に≪ドケチズム≫仮現説があった。それによると、イエスは、神の子であって、イエスと言う人間を仮の宿としたと言うのだ。この考えは、有力であった。もしこの説が正しいとするなら、イエスは、完全な人間ではなく、彼の受難は、単なるパントマイムに過ぎなくなる。

ö   ≪イエスの受難と十字架≫は、かなり劇的に描かれてはいるが、その背後に、全ては神のご計画であるとの考えが隠れている。人類史上まれに見るドラマが展開されているが、そして人は、このドラマを読んで、ハラハラドキドキさせられるが、記述は、それに比して生々しいと言うより、淡々としている。しかし≪ゲッセマネの祈り≫だけは違う。イエスの人間性が実に良く表現されている。彼の死を前にしての懊悩が、その息吹が伝わってくる。【わたしは死ぬばかりに悲しい、ここを離れず、わたしと共にいて目を覚ましていなさい。】(マタイ26:38)

 




< 3月26日のメッセージ >

≪ 誰のせいか? ≫

 

è   【さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それとも、両親ですか?】(ヨハネ9:1,2) 

 <盲人の癒し>の物語は、旧約外典、≪トビト書≫に記されている。トビトは、アッシリアのニネベに生活した。サマリアが戦争に負け、捕虜として連れていかれたのである。彼は、信仰に厚く、正義を愛し、そればかりか同胞にたくさんの施しをした。

è   彼は、その時代にほんろうされて、紆余曲折の人生を歩むが、幸いに、当時の王に認められ、地位の高い要職に就く。ある祭りが行われていた時、同胞が、理由もなく絞殺されてしまう。トビトは同情し、死体を埋葬する。人々が嘲ったが、彼は情に厚い人であった。しかしその時、雀の糞が目に入り、目に白い膜ができ、ついに失明してしまう。彼は、悲嘆に暮れ、涙の中に祈った。≪あなたは永遠に真実で、正しい裁きを行います。わたしを覚え、恵みをもって、わたしを顧みてください。わたしの罪、気づかないで犯した過ち、また、わたしの父

è   祖がみ前に犯した罪の故に、わたしを罰しないでください。≫(トビト書3:3) この祈りに、当時の≪因果応報≫思想が色濃く出ている。彼は、失明した。理由は、何か悪いことをした結果、罰として、禍が起こったと言うのである。トビトは、幸いに、後日癒され、回復するのである。彼の苦しみは、失明と言う身体的障害以上に、当時支配していた、罪の結果であると言う、≪因果応報≫に苦しめられた。弟子の質問は、そのような旧約以来、支配していた、≪罪とわざわい≫との関係が、顔をのぞかせている。 

è   【イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』】(ヨハネ9:3) イエスは、<因果応報>を打ち砕いた。” God’s power might be seen at work in him. ” イエスは、人々を苦しめ、悩ませていた呪縛を、解き放ったのである。このような呪縛は、今日でも強く支配している。特に日本社会には、強い。一度失敗すると、世間の目は冷たい。イエスは、全く反対の考えを提供した。つまり<神の栄光>の意味を全く新しくしてしまったのである。





<3月12日のメッセージ >

≪ 神の朝に向かって ≫

 

è   【さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。】(ヨハネ3:1) ニコデモは、当時の最高議会、サンヘドリンのメンバーの一人であった。彼はファリサイ派であったが、聖書の研究に余念がなかった。しかし如何せん、高齢であった。彼は、この後、再び、イエスの十字架を巡って、登場する。(19:38) 彼は、当時における最高の地位を得た人であった。その彼が、イエスを訪問した。しかも夜であった。人目をはばかったのかもしれない。しかしイエスを尊敬していたに違いない。

è   【ある夜、イエスの元に来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。』】(3:2) ニコデモは、心の柔らかな人間であったようだ。普通であれば、地位もあり、しかも高齢に達している人間が、一介の巡回説教者ごときに、わざわざやって来て、質問するなどあり得ない。それを考えると、彼は相当、物事を深く考え、真理を探究することに熱心であった。人間、高齢になると、教えることには、熱心でも、学ぶことには、疎くなるものである。そして高慢になるのが常である。

   【イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見   ることはできない。』】(3:3) イエスの常套句がまず語られ、その後、真理が表明された。この   ≪新たに≫との表現は、原語では、<上から>、<もう一度>との意味がある。しかしニコデ    モは誤解した。彼は、恐らくさらなる戒めへの扉が開かれると思ったのである。それで、イエス   に年を取った者が、もう一度、生まれることなどできる訳がないとイエスに詰め寄った。当然で   ある。誰でもイエスの言うことは、分からない。理屈に合わないからである。

è  【 肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。】(3:6) ニコデモが誤解することで、イエスの語る真理への道が開かれた。肉とは、人間の起源を指している。しかしこの肉である人間は、変わることができない。何故なら、人間は、土の塵から造られ、それに神の息が吹きかけられることで、生きた者となったからである。それが、<アダム>の由来である。<土の塵>(アダマ)から、<人>(アダム)が創造された。従って、<新たに生まれる>とは、神の霊によらなければならない。しかしそれは、人間の理解を超えている。








< 3月5日のメッセージ >

≪ サタンよ、退け! ≫ 

Ë   【さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて、荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。】(マタイ4:1) イエスは、サタンから三つの試みを受けた。はじめの二つは、巧妙に、最後は、あからさまに。イエスは、それらをすべて退けられた。その根拠のどれも、申命記からの引用である。(申命記、8:3,6:13,16) イエスが受けた誘惑は、イスラエル人が、荒れ野で受けた誘惑と似ている。イエスも、彼らと同様の誘惑を受けられた。しかし違いは、イエスは、失敗しなかったことである。

Ë   サタンは、聖書に、たくさんの姿で現れる。例えば、ヨブ記では、神が開く天の法廷のメンバーである。あるいは、ダビデに対して、イスラエルの人口を数えるように誘惑する。≪サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。≫(歴代上21:1) マタイは、それらの歴史的背景を顧慮しない。また、神の試みと悪魔のそれとを区別しない。彼は、むしろ単純に、イエスが、どのように戦い、打ち勝ったかをしか記さない。つまり、マタイは、イエスが救い主として、悪魔からの解除を説こうとしている。

Ë   マタイは、≪四十日四十夜≫、イエスが、試練に遭ったことを記述する。しかしこの言葉は、イスラエルが、荒れ野で試みられた40年と、最もリンクしている。≪あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。≫(申命記8:2) 試練を受けるのは、神の民であるが故である。普通の人間は、試練は受けない。受けても、スルーしてしまう。上手くかわすのである。あるいはごまかすと言った方が適当であろうか?

Ë   【 すると、誘惑する者が出て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』】(マタイ4:3) ユダヤ、キリスト教の伝統では、サタンは、様々な帽子をかぶっている。告発者、中傷者、あるいは黄泉の世界の支配者。しかしここでは、サタンは、試みる者として描かれる。彼は、イエスと神との仲を割こうとする。それにしても、注目したいのは、神の子が、<パン>と言う、あまりにも人間的問題で試みられていることである。飢えとは、あまりにも人間的事柄である。即ち、イエスは、全き人間として誘惑を受けられた。









< 2月26日のメッセージ >

≪ 輝いている ≫

 

(   【六日の後、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。】(マタイ17:1) マタイは、<山上の変容>の出来事を、<六日の後>と記している。明らかに、モーセのシナイ山における<十戒>授与の情景を意識している。つまり、<六日間>、シナイ山に雲が覆い、七日目にやっと、神がモーセに語られる。(出エジ24:16) ルカだけは、<大体八日目に>と記してある。<山上の変容>がどこの山で起こったかは不明である。ある人は、今日のレバノンにある<ヘルモン山>と特定する。

(   【ところが、彼らの目の前で、イエスの姿が変わり、その顔は輝き、その衣は光のように白くなった。】(マタイ17:2) 彼らが、シナイ山の頂上に着いた時、突然イエスの姿は、彼らの目の前で、変容した。彼の顔は、太陽のように輝き、彼の衣装は、真っ白くなった。昔から、神の栄光に包まれると、顔が輝き、衣が真っ白になった。(出エジ34:27) かつては、神の栄光が、モーセに臨んだ。しかし今や、この時、神の栄光は、イエスに臨んだのである。まさに神の子として、この地上に歩まれたのであった。

ペテロはイエスに向かって言った。『主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。もし、おさしつかえなければ、私はここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。』】(マタイ17:4) ペテロの提案は、旧約時代の、荒れ野での出来事を、反映している。ペテロの指摘は、≪仮庵の祭り≫を暗に指し示している。≪仮庵の祭り≫は、豊かな意味を持った言葉である。それは、神の栄光が充満した、神の臨在を語る。それは、イスラエルの荒れ野時代を想起させる。

(  また同時に、ソロモンの神殿に繋がり、メシア時代にもリンクしている。【彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らを覆い、そして雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である。これに聞け。』】(マタイ17:5) 雲は、シナイ山に関係している。声が、その時、宣言した。そして幻は終わった。するとイエスだけが残っていた。弟子たちはイエスだけを見た。雲の中からのメッセージは何か? それは、イエスこそが王であり、僕であり、そして新しいモーセであると言うことである。









< 2月19日のメッセージ >

≪ 目には目を、歯には歯を ?! ≫

 

Ø   【あなたがたも聞いている通り、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。】(マタイ5:38) 非常に有名な、イエスの言葉である。昔は、キリスト教と言うと、この言葉が引用された。このイエスの言葉を、最も忠実に実践しようとしたのが、インド独立の立役者、マハトマ・ガンジーその人である。彼の立場は、<無抵抗主義>と呼ばれ、イエスの言葉と同列に並べられる。イエスも<無抵抗主義>であったと。

 

Ø  しかし、果たして、イエスは、<無抵抗主義>を唱えたのであろうか? ガンジーの思想は、<非暴力主義>とも言い換えられる。つまり暴力に訴えない、抵抗主義なのである。ガンジーは、今までのように、暴力を使っていたのでは、イギリスと言う強国に勝てないことを知って、方法を変え、それが<非暴力>であり、彼のとった、抵抗であった。実に有効な方法であり、結果、インドを独立へと導いた。北森先生によると、イエスの教えと、ガンジーとは、違っていると言う。

 

Ø   【あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。】(マタイ5:40) この場合は、法廷での争いが念頭にある。<あなたが兄弟姉妹と戦いをしている場合、むしろ裸になってしまいなさい>(申命記24:13) 醜い争いをしているより、負けてしまった方が、すっきりすると言うのである。そんな、お人よしでは、世間は生きて行けないと反論されるかもしれない。ここまでくると、<無抵抗主義>とは違う。無抵抗主義は、せいぜい、<下着>は返せても、<上着>までは、考えつかない。

 誰かが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に、ニミリオン行きなさい。】(マタイ5:41) ここでも、同様なことが言える。昔、ローマ兵は、自分の武具を運ぶ時、どんな場合でも、人に一マイル運んでもらう権利を持っていた。このローマ法の下で、愛国的ユダヤ人が、ローマへの反抗を燃やしても無理はない。しかしイエスは言う。もし彼らがそのような状況に出くわしても、ローマ兵士と、二マイル行けと。【父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。】(マタイ5:46) どうやらこれが結論であるように思う。神の憐みに生きることが全てなのである。








< 2月12日のメッセージ >

≪ 仲直りの道 ≫

 

Ø   【あなたがたも聞いている通り、昔の人は殺すな、人を殺した者は裁きを受ける。と命じられている。】(マタイ5:21) マタイは、これから六つの命令を細かく展開する。特徴は、伝統的な教えとの対比で述べられる。この語り口にそれが良く示されている。<昔の人はこう言っている。しかし私はこう言うと説明し、全く反対のことを語る>。このような語り口は、反対命題を通して、一つの衝撃を狙い、人を注目させるのに有益である。同時に、社会における、生き生きとした教えを語ろうとしている。

 

Ø   このような口調は、新しい教えを説く時に、良く用いられる技法で、新鮮な息吹を伝えるのに役立つ。またその教えの<革命的>要素を引き出す。即ち、昔との比較で、マタイは、礼拝、結婚、裁判、政治、仕事に関して、偏見を批判し、新たな義を提供しようとしている。≪あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない。≫(マタイ5:21) イエスの≪言っておくが≫と言う前置きの言葉は、当時では画期的上述の仕方である。人々に強烈な印象を与えた。

 

Ø   【しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。】(マタイ5:22) イエスは、どういう意味で、この言葉を語ったのであろうか? 誰が聞いても理解に苦しむ言葉である。<怒り、軽蔑>等が、殺人と同罪だと言うのか? イエスは、ここで、表面的な現象だけを考えてはいない。少しイエスの真相に迫ってみよう。<怒り、軽蔑>は、直接殺人と結びつくわけではない。しかしそれらはお互いを分断し、切り離す結果を招くことが多い。<怒り>をドイツ語で、” Zerbrechen “と表現する。意味は<粉々に砕く>である。

 

Ø   聖書の物語を読むと、<怒り>が、<殺人>と結びつくことが、あながち大げさと言えないことに気づかされる。例えば、≪カインとアベル≫の物語。彼らは、人類初めの兄弟である。アダムとエバは、≪エデンの園≫で罪を犯し、エデンの東に追放される。しかしそこで、やっと幸せを掴む。≪アベルとカイン≫が生まれたからである。しかしこの兄弟は、大きな悲劇を招くことになる。兄のカインが、弟アベルを手にかけてしまうのである。折角つかんだ、アダムたちの幸せも、つかの間でしかなかった。その殺人事件の発端は≪怒り≫であった。

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