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新しい視点で○○○を活動する Numadu Lutheran Charch

音声メッセージ



< 11月12日のメッセージ >
               ≪ 最も重要な教え ≫        

                          

    【 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。】(マタイ22:34) イエスとサドカイ派との論争は、前記の23~33節に出てくる。彼らは、イエスに≪復活≫について議論を仕掛けた。何故なら、彼らは、ファリサイ派と違い、≪復活≫を否定した。そこで今度は、ファリサイ派の出番である。彼らは、サドカイ派と手を組み、イエスを罠に掛けようとたくらんだ。両者は、普段口も利かない位に険悪であったが、同じ標的を見つけ、共闘したのである。丁度、裁判時に、ピラトとヘロデが手を結んだようなものである。

 【そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか?』】(マタイ22:35) この人は、ファリサイ派に属する人である。マルコでは、同じ律法学者が、まじめに、真剣に尋ねたと記してある。しかしマタイでは、≪試す≫ためである。しかもマタイは、≪試す≫を悪い意味で使っている。例えば、4章では、イエスが、サタンから誘惑を受ける場合である。ここでは、≪試みる≫と表現されている。あるいは、ある時、ファリサイ派とサドカイ派が共謀し、イエスを試し、天からのしるしを見せろと迫った。

   【イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』 これが最も重要な第一の掟である。】(マタイ22:37) この言葉は、申命記6:4に記されている。ただマタイは、〖聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一である。〗を省いている。しかしこの全文は極めて重要である。何故なら、以下に続く、〖心と、精神と、思いを尽くして〗との表現が、そこから派生してくるからである。ともかく、〖神への愛〗が、人々の生活の基本であった。決してばらばらではなく、生活の中心に〖神への愛〗を据えていた。

  第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。律法と預言者は、この二つの掟に基づいている。』】(マタイ22:39)この戒めは、レビ19:18の引用である。イエスの狙いは、第一と第二を語ったのではない。この二つを同列に並べ、しかも同じ掟として語ったのである。ここにイエスのユニークさがある。つまりイエスは、〖神への愛〗と〖隣人への愛〗を同じに並べた。何故か? それは〖愛〗が、アガペーと言うギリシャ語で表現され、決して、人間からでたエロースと違い、神からしか生まれない無条件の愛を指しているからである。






< 11月5日、全聖徒主日礼拝のメッセージ >

           ≪ もはや死も、悲しみも、嘆きもない ≫

    【 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。】(黙示録21:1) この言葉は、旧約に見られる。≪見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こすものはない。≫(イザヤ65:17) ≪新し天と地≫は、決して来るべき世界のことではない。焦点は、あくまで≪地上≫にある。何故なら、この地上に、天的世界が降りてくると語っているからである。神の座が、街の真ん中にあり、癒し、回復することが、もう一度起こると告げられている。(黙示録7:16参照)

 【その時、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となる。』】(黙示21:3) これこそが、≪新しい天と地≫の最も重要なテーマである。Now God’s home is with people ! He will live with them, and they shall be his people. God himself will be with them, and he will be their God. ” 英語の訳では、はっきりとまた明確に、神が私たちと共にいることが語られている。神は、近い方ではなく、もはや共におられる方である。

  主に贖われた人々は帰ってくる。とこしえの喜びを先頭にたてて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。≫(イザヤ35:10) これは、旧約における回復をテーマにした言葉である。【もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。】(黙示21:4)と言う言葉も、来るべき世を指しているのではなく、あくまで≪地上≫のことである。この世は、決して悲しみの世ではなく、また嘆きの世でもないことを告げている。≪主キリストにあって死ぬ人は幸いである。≫(黙示14:13)

  〖 あなたは死を、それだけを切り離して考えたり、死をあなたの性質に即して考えてはならない。また、死に打ちのめされた人々を参考にしてはならない。そうすれば、あなたは絶望に陥り、死に負けるであろう。そうではなく、あなたは自分の目を、死の像から強引に転回させ、ただ神の恵みの中で死んでおり、死に打ち勝った人々と、とりわけキリストにおいて、次いで聖徒たちにおいて死を見るように、心掛けるべきである。見よ、これらの像において、死は既に克服されている。キリストは命以外ではない、聖徒も同様である。〗(ルター、死の準備について)






< 10月29日、宗教改革記念礼拝のメッセージ >

               ≪ キリスト者の自由 ≫

$   【あなたがたは、良く走っていました。それなのに、いったい誰が邪魔をして真理に従わないように、させたのですか。】(ガラ5:7) 今日は、≪宗教改革記念日≫である。そこでガラテヤ書から、≪キリスト者の自由≫について学びたい。ルターは、1520年に≪キリスト者の自由≫と言う本を出版した。≪宗教改革運動≫が火ぶたを切り、3年後のことである。その間、彼は、文字通り≪疾風怒濤≫の日々を送っていたに違いない。何せ、予想をはるかに超える運動へと発展していったのだから。この本が書かれたのは、その運動が一段落ついた時であった。

$   ≪キリスト者とは何だろうか?キリストが獲得し、キリスト者に与えてくれた自由とは何だろうか。≫、ルターは、その本の書き出しにそのように記す。そしてあの有名な命題二つを記す。
  1、 キリスト者はすべての上に立つ自由な主人であり、誰にも服従しない。
  
2、 キリスト者はすべてに仕える僕であり、誰にも服従する。
  
  全く矛盾する二命題をキリスト者に冠した。伝統的に考えられてきた≪自由≫とは全く違っ    ているし、彼の発明でもある。

$ $   しかしルターが、彼独自に生み出した思想ではなかった。明らかにパウロの強い影響を受け、彼自身の言葉で、今日的に表現したに過ぎない。この二命題にそっくりな表現が、ガラテヤに記されている。【あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。】(ガラ5:13) パウロは、この手紙で口角泡を飛ばし、≪割礼≫の無効であることを主張する。理由は、せっかくキリストが、無償で、条件なしに、人間に≪自由≫を与えてくれたからである。

 この概念は、昔は、ギリシャから生まれ、世界に広まった。元々≪奴隷≫と比較しての自由が考えられた。そして≪ストア哲学≫が、≪自由≫を中心概念に据え、展開した。それによれば、≪欲望≫からの自由が本当の自由だと言う。そして禁欲を説く。しかし限界が見えてくる。何故なら、人間は完全には、≪欲望≫から解放されることはないから、北森先生は、この≪自由≫を≪自発性≫と解釈する。即ち、キリストが獲得してくださらなければ、どこまで行っても人間は罪の奴隷である。キリストが解放してくださることによって、人間は、初めて自由なるものを知るのである。

 

<10月15日のメッセージ >

             ≪ 気前良い主人 ≫

è    【天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園に働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。】(マタイ20:1) このたとえは、マタイだけに載っている。物語の焦点は、主人の驚くべき気前の良さである。それ以外ではない。そこを踏まえないで、枝葉末節に関心を持つと、とんでもない誤解を生む。まず、このたとえ話が置かれている位置が重要である。すぐ後に、≪イエスの三度目の受難予告≫が来る(20:17~19)、その後には、≪ステータス≫議論が来る。

è   このたとえは、ペテロの質問、【このように、私たちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。ついては何がいただけるでしょうか?】(マタイ19:27) への回答である。彼らは、イエスにはじめから弟子として、従った。だから優先的特権を持っている。そして報酬は大きいと期待した。人間にとって≪報い≫は、重要である。幼いころから、良い働きには、良い結果が伴うと教えられた。逆に、怠けていたら、ご褒美は貰えない。それが社会の共通した考えである。しかし良く考えてみると、大人になると必ずしも、社会の現実は、その原則通りには行かない。

è    【夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者を呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。】(マタイ20:8) このたとえの中心はここにあり、しかも大きな問題を含んでいる。何故なら、僅か一時間しか働かなかった者と、朝早くから働いたものが、同じ一デナリオンしかもらえないからである。≪同一労働、同一賃金≫の原則が見事に破られている。まったくの不平等である。神は不公平な方なのか?気まぐれな方なのか?との疑問が生じる。しかしここが、最も重要であり、神と人間とを分ける接点と言える。

è   【そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人が来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。】(マタイ20:10) 朝早くから働いた労働者は、汗水流し、暑さにも辛抱して働いたのだから、不平を言うのは当然である。結論としてルターの説明を引用しよう。≪人の前で最初の人と見える人は、神の前では、最後の者である。逆に、人間前で最後に見える人は、神の前では最初の人である。即ち、人に最初の人と考えられる人を、神は、最後のものと評価するのである。

 




< 10月8日のメッセージ >

              ≪ ならぬ堪忍、するが堪忍 ≫

è    【そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』】(マタイ18:21) ここでも≪赦し≫がテーマである。ペテロは、赦しは、どの程度まで可能かとの質問を提示している。≪七回≫とは、かなり無理して言っている。≪仏の顔も三度≫と言うのが、世間で通じていた。あるいは≪ならぬ堪忍、するが堪忍≫と言われるように、どこまでも堪えるのが、≪忍耐≫と言うものかもしれない。しかしこと≪罪≫に関しては、やはりついには≪堪忍袋の緒が切れる≫のではなかろうか?

è    【イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍するまでも赦しなさい。』】(マタイ18:22) ここでは、文字通りに解釈するより、マタイは、旧約を意識して福音書を書いているので、いわゆる≪レメクの復讐≫と関係している。≪カインのための復讐が七倍なら、レメクの復讐は七十七倍。≫(創世記4:24) イエスの言われる、≪七十倍≫は、≪レメクの復讐≫と対比している。つまりイエスは、≪レメクの復讐≫を解約しようとしている。何故であろうか? そこでイエスは、次のようなたとえを話すのである。

 【そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。】(マタイ18:23) イエスのたとえは、≪天の国≫に関してであるが、この世の≪教会≫と重なっている。決済とは、≪最後の審判≫が予想されている。話は続く。主君は、一万タラントン借りていた家来がいたので、返すように命じた。≪一万タラントン≫は当時の莫大な金額である。一億ぐらいであろうか? しかし家来は返せないので、主君に懇願した、≪どうか待ってください、必ず返しますから。≫と。主君は憐れに思い赦してやった、しかも帳消しにしたのである。

è   【ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。】(マタイ18:28) 先程、この家来は、主君から莫大な借金をゼロにしてもらったばかりなのに、僅か≪百デナリオン≫貸していた仲間に会うと、返せと迫り、脅迫したのである。何とあさましい人間であろうか? ≪赦し≫は人間には不可能である。何故なら、≪赦し≫こそ人間の矛盾をついているからである。ルターは、≪福音あるいは神の国とは、赦し以外には存在しない国である。≫と語るが、真実を表現していると思う。







<10月1日のメッセージ >

                   ≪ 立ち帰れ ≫

è    【兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたなら、兄弟を得たことになる。】(マタイ18:15) ここでの≪罪≫とは何か? 恐らく、英語では、” Fault ”と表現されているので、≪落度≫、≪失敗≫、あるいは≪裏切り≫の意である。しかし赤の他人の落ち度は許せても、親しい人の落ち度は、なかなか許せない。それがたとえ、信仰者同士でも。否、信仰を持っているからこそ、許せないのである。酒を飲んで、お互いに水に流すなどはできない。真剣であるからこそできない。

è   ≪心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。≫(レビ9:17) なぜ仲直りをしなければならないか? 友を失わないということが大きな理由であるが、それ以上に、彼の罪は、同時に自分の罪になることを警告している。これは驚くべき考えである。何故なら、傷ついたままだと、やがて憎しみに変わり、仕舞には復讐へと変わってくるというのだ。もちろん、これは共同体での規制として考えられている。いずれにしても人間の深い心理を読んでいると思う。

è   多くの場合、兄弟の罪を、私たちはどう対処するであろうか?二つの傾向がある。一つは、見て見ぬふりをする。私には関係がないと言う態度である。無関心と言ってもいい。もう一つは、腹を立てて、本人に言えないので、腹いせに他人に訴え、悪口を言い、溜飲を下げる態度である。どちらも良い解決には繋がらない。私たちの世界に見られるもめごとは、良く他人に相談しても、≪火に油を注ぐ≫ことになりかねないので、一人で抱え込んでしまうことが多い。しかしそのもめ事を通して、実は共同体が試されているのである。

 【わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。】(エゼ33:11) 親鸞は、<悪人正機>を説いたと言われる。しかしその趣旨は、元々聖書に示されている。その証拠が、今日の旧約の日課である。<善人>と言われる人が、最後に神を裏切ることがある。逆に、<悪人>が、最後に神に立ち帰ることがある。どちらが神の御心であろうか? 神は、悪人こそが本当に救われることこそ喜ばれる。遅すぎると言うことはない。だからもう遅いと言ってはいけない。







< 9月17日のメッセージ >

                  ≪ 思い起こす ≫

$   【イエスは、フィリポ・カイサリヤ地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。】(マタイ16:13) イエスは、ガリラヤでの宣教活動を一旦終え、弟子をフィリポ・カイサリヤ地方へと連れて行った。そこは、ガリラヤから、約20マイル、北に離れている外国であった。その国は、ヘロデ大王の息子、フィリッポによって支配された。フィリポ・カエサリヤと名付けられた。彼は、ローマ皇帝を尊敬し、その名をつけたと言われた。イエスは、そこに着くと、自らを人々は何と言っているかと尋ねた。

  【弟子たちは言った、『洗礼者ヨハネだという人も、エリヤだという人も、…もいます。』】(マタイ16:14) この問いは、後に続く問いの準備に過ぎない。どの人も当時の、優れた指導者と考えられていた。つまり評判の人であった。いかにエリヤが偉大な人物であったかが次の言葉で分かる。≪そして火のような預言者エリヤが登場した。彼の言葉は、松明のように燃えていた。≫(シラ48:1) しかしどんなに優れた人間であっても、所詮は人間に過ぎない。礼拝の対象にはならない。キリスト教は、人間崇拝ではない。そこに当時の異教の神との違いがあった。

 【イエスが言われた。『それでは、あなたがたは、わたしを何者だというのか。』 シモン・ペテロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。】(マタイ16:15) この問いには、前の問いとは違った意味が含まれる。前の問いは、評判に過ぎない。もっと言えば、うわさに過ぎない。しかしこの問いは、自分が含まれる。重みが違う。ここでは、≪あなたがた≫、“ You ”が非常に重要である。≪信仰告白≫は、自分の告白である。人の告白ではない。あなたにとって、イエスが何かがまさに問われている。まさに自分自身が問われている。


ペテロは、≪生ける神の子≫と答えた。神は死んだ神ではない。生きている神である。英語では、” The living God “と表現する。聖書の神は生きた神である。その意味は、≪わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。≫(出エジ6:2) 神は、人々の嘆き、悲しみに耳を傾け、掬われるお方である。それこそ、≪生ける神≫の姿である。だからイエス・キリストは、受難を受け、十字架を通して、人々への救いの道をお示しになったのである。≪生きた神≫とは、イエスの受難を意味している。

 




<9月3日のメッセージ >

              ≪ 祈るための登山 ≫

   【群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただ一人そこにおられた。】(マタイ14:23) イエスは祈るために山に登られた。なぜイエスは、祈るとき山に登られたのか? 雑踏を離れ、静かなところで、祈るということも理由の一つであるが。聖書で、≪山≫は神に近い所である。そこで一人神に向かい祈った。イエスの働きを観察すると、常に群衆に囲まれ、お話をし、癒しを行う活動的姿が見られる。しかし反面、静を求めて祈られた姿も浮かんでくる。この≪静≫と≪動≫が、バランス良く保たれていたのがイエスであった。

ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。】(マタイ14:24) この話は、前の記事≪五千人の給食≫との関連がある。イエスは、その出来事の後、弟子を強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた。≪五千人の給食≫は、ガリラヤ湖畔で起こった。マルコは、≪ベトサイダ≫と記している。もうかなり岸辺から反対方向へ来た時、逆風が押し寄せ、舟は立ち往生した。それどころか転覆しそうになった。さすがの彼らもほとほと困り果てた。そこへイエスが近づいてこられた。しかもイエスは、湖上を歩いてこられた。

Q  イエスはすぐに彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』】(マタイ14:27) 舟が転覆しそうになり、彼らの慌てふためきようはなかった。彼らは、醜態をさらした。この描写には、マタイ特有の文学的技法が施されている。それは、≪山≫と≪湖≫との対比である。≪山≫は祈るところ、神に近い世界である。それに対して≪湖≫は、混沌、悪の住む世界である。そこは災難や苦しみが渦巻く世界である。≪神は自ら天を広げ、海の高波を砕かれる。≫(ヨブ記) 悪の世界に勝利をされるお方は、主イエス以外にない。

Q  イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか?』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。】(マタイ14:31) マルコの平行記事では、彼らの心が鈍くなっていたと記してある。(マルコ6:52)、マルコはマタイに比べ、ソフトに感じる。マタイは、直截で、きつい表現が使われている。ここでも≪信仰とは?≫が問われている。ペテロは、イエスが湖上を歩くのを見て、自分もできると思った。それは彼の信仰がさせたのである。しかし実際は、イエスと同じことができなかった。人間の確信はあてにならない例証である。






< 8月27日のメッセージ >
      ≪ 豊かな人生 ≫

Q    【イエスはこれを聞くと、舟に乗って、そこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。】(マタイ14:13) これから始まる、所謂≪五千人の給食≫の出来事の、序説である。ここに表現されているのは、人々の熱い求道である。≪五千人の給食≫は、4つの福音書に載っている唯一の記事である。それは、この出来事が、いかに初代教会に強い印象を与えたかである。初代の人々が、熱い思いで語り伝えたことが髣髴とする。多くの人は、こんなことが起こるはずがないと分かるように説明をする。

Q    例えばこんな風に。ヨハネは、≪ここに大麦のパンと魚二匹を持っている少年がいます。≫(ヨハネ6:9)と編集しているが、これは明らかに、合理的な説明を加えていると考えられる。ある人は、集まった人々は、食べ物を隠し持っていたが、少年が差し出したので、気まずくなり、自分たちの食べ物を出したのだというのである。確かにこれは、合理的説明である。しかしこの記事は、テーマがはっきりしている。それは、神の深い人間への憐みである。ここを逸脱してしまうと、この出来事を理解できない。あるいは、神の≪気前良さ≫と言える。

Q   【弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません』。イエスは、『それをここに持ってきなさい。』と言い、、】(マタイ14:17) 時は夕暮れ、イエスの話を熱心に聞こうと人々は、集まっていた。弟子は、集まっためいめいが、自分で食べ物を探すように提案する。しかしイエスは、そのわずかなパン五つと魚二匹で十分と言われる。イエスと弟子との違いが明確になる。そして奇跡は起こる。人間の提供する僅かな物を、イエスは豊かに祝福された。奇跡は、そこに起こる。決して人間の大きな働き、力の上にではない。わずかな働きの上に起こるのである。

Q   ≪友よ歌おう≫と言う讃美歌集がある。その中に≪豊かな人生の条件≫と言う歌がある。≪豊かな人生の条件は、聖書の中に、歴史の始まる以前から、啓示されています。まことの神を敬い、罪を悔い改め、まごころ尽くしてキリストに、従うことです。≫ 良い歌だと思う。昔、子供たちと一緒に良く歌った歌でもある。単純で、はっきりした歌詞に心打たれる。≪渇きを覚えている者は皆、水の所に来るがよい。来て、銀を払うことなく、穀物を求め、ぶどう酒と乳を得よ。≫(イザヤ55;1) 神の恵みに、ただ感謝と喜びを感じるこの頃である。






< 8月6日のメッセージ >
        ≪ 平和を抱いて ≫

Q    暑い、暑い夏がやって来た。そして日本人は、毎年この暑い夏に、≪平和≫の尊さを考える。それは、8月6日の≪広島原爆投下≫、9日の≪長崎原爆投下≫、そして15日の≪終戦記念日≫を迎えるからである。JELCは、毎年8月第一主日を≪平和礼拝≫として守っている。毎年繰り返し、繰り返し≪平和を覚える日≫として、上記の3つを記憶するためである。このことは、日本人として、時がいくら経過したとしても、決して忘れてはならない出来事であろう。今日≪平和≫を口にしても、何か空々しさが響くが、まず以って、そのことが重要であると思う。

Q    ドイツには、大統領制度が確立している。彼は、政治的にはさほど権限を持ってはいない。ある種の宗教性が求められている。つい最近で、有名なのは、ヴァイツゼッカー大統領である。彼の名演説≪荒野の40年≫は話題になった。ドイツの大統領は、国民を励ますだけではなく、啓蒙をする、また批判もする。今の大統領はガウクであるが、彼は、2015年にドイツ連邦議会で、しかも≪アウシュビッツ強制収容所解放から70年≫を記念する演説で次のように述べた。≪おそらく将来世代は新しい記念の形を追求することになるでしょう。またホロコーストも、

Q   すべての市民にとってドイツのアイデンティティの核心的要素とはもうみなされないかもしれません。しかし、これからも言い続けなければならないことは、アウシュビッツなしにドイツのアイデンティティは存在しないということである。ホロコーストを記憶することは、ドイツで暮らすすべての市民の責務なのです。≫ この演説は、同じ敗戦を経験した日本人にも、身に染みる言葉である。同時に、日本人として全く同じことが言えると思う。私たちも、戦争が風化して行く中で、≪平和≫を求めることは難しいが、しかしまず振り返ってみなくてはならないことである。

Q   【その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まってきたので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。。】(マタイ13:1) 同じ日である。それはイエスと聴衆との違いが明確になった時である。従って、イエスは、ガリラヤ湖で、岸に向かい舟に乗って、民衆に語った。場面は、以前とがらりと変わる。イエスの語る舞台は、会堂から、ガリラヤ湖に移る。しかし群衆は、イエスの語る言葉に耳を傾けた。屋外であったが、一種の競技場などに見みられる音響効果があったのであろう。







<7月30日のメッセージ >
      ≪ 七転び八起き ≫

&  【 その時、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』】(マタイ11:25) ここで表現されている≪知恵ある者、賢い者≫とは、イエスの福音を拒否した律法学者やファリサイ人のことである。しかし逆にイエスを受け入れた人がいる。≪子供のような人≫である。≪身分の高い人や著名な人は、多い。しかし神の奥義は柔和な人にあらわされる。主の威光は壮大。主はへりくだる人によって崇められる。≫(シラ19)

  イエスの言葉は、ストレートではない。変化球である。しかもかなり変化している。上手な捕手でも取り損なう。要するに、本当の聡明さはしばしば隠されているという意味である。自分は賢いと思っていても、実はそうでないことが良くある。あるいは己惚れている人ほど、自分のことが見えていない。決して≪賢さ≫を侮っているのではない。イエスのお示しになった福音は、≪十字架の福音≫である。≪栄光の福音≫ではない。≪世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。≫(Ⅰコリ1:21)

& 疲れた者。重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。】(マタイ11:28) マタイにしか載っていない言葉である。しかもまことに強烈な言葉である。疲れた人、重荷を負う人とは、律法学者たちによって、事細かな律法の解釈によって、縛られ、挙句に自らの努力が空しくされている人である。その重みで苦しめられている人である。ポ語では、” cansados e curvados “と表現され、疲れ果て、結果諦めてしまっている様が示されている。それは回復不能を意味している。疲れは、高じると大きな支障になってしまう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。】(マタイ11:29) ここで意外なことは、イエスの≪軛≫である。そもそも軛を負うこと自体、重荷ではないか? 安らぎとは、軛などなく、一切から解放されることではないか? と思う。イエスは、軛がない生き方は、返って不自由であると言う。ではなぜ、イエスの軛は、負いやすいのであろうか。それは、イエスの軛は、相手に合わせて作られているのではなく、私に合わせて作られているからである。それはイエスが柔和で謙遜なお方だからである。





< 7月16日のメッセージ >
   ≪ 蛇のように賢く、鳩のように素直に ≫

&  【 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込みようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。】(マタイ10:16) イエスは、ここで処世術を弟子に授けているのだろうか? 彼らは、この先困難を迎える。それは想像以上のものである。反対や抵抗はもちろん、迫害までが、彼らを襲うというのだ。それに対処するために、このようなかなり大胆ともいえる、教えを授けたのであろう。旧約では、≪蛇≫は、良い意味では使われない。エデンの園で、エバが蛇に誘惑されるが、≪蛇≫を、口語訳では、≪狡猾≫と訳している。

 確かに、英語の訳でも、Now the snake was the most cunning animal that God had madeと表現されている。この背景には、終末論的思想が横たわっている。神の国が、到来するためには、困難や迫害は、その前触れである。何か思いがけない試練に出会ったように考えてはならない。苦しみは、宣教に付随的なものではなく、宣教が試練をもたらすのである。イエスは、ここで、弟子を宣教に遣わすにあたり、心構えを授ける。彼らには、戦いのための武器を持たない。人を動かす力を持っていない。あるのはただ神の言葉だけである。

&  【人々を恐れてはならない。】(マタイ10:26) 人間は、色々なものを恐れる。人間の基本的な、生来の、怖れは、≪別れ≫による≪分離≫の恐れだと言われる。だから人は、孤独を恐れる。この恐れが、人を更に孤独をさせ、命から引き離し、神からも引き離す。神々と言われる存在は、怖れを持たない。あらゆる変化から自由であるから。人間も同様であるならば、自由であるし、怖れがなくなる。しかしまったく意味のない人生を送ることになる。何故なら、人を愛する必要がなくなるから。我々は、神を信じることで、怖れから解放される。

&  【一つの町で迫害されたら、他の町に逃げて行きなさい。】(マタイ10:23) 宣教が上手く行けば、順調であるが、逆であるならば、悲惨である。重苦しい雰囲気になる。宣教がはかどらない教会は、重い雰囲気になる。挙句は、人数ばかりを気にすることになる。教会は、いつも危機に面している。おおらかな視点から、望みたい。イエスは、たとえ困難を迎えても、玉砕を求めてはいない。神信頼に立つことを求めておられる。最終的に信頼すべきは、人間ではない。人間は裏切る。しかし神は裏切らない。何故なら、神は、≪髪の毛≫まで数えておられる方だから。






< 7月9日のメッセージ >
     ≪ 天才と使徒 ≫

*   【 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。】(マタイ9:35) ここは、8,9章の要約である。そこには、イエスがガリラヤの町や村を訪ね、会堂で教えたことが記されている。特に、マタイは、イエスが教えたことに力点を置く。イエスは、説教よりも、教えに力を入れたのである。違いはどこにあるか? それは、教えには、相手の考える力が大きく求められる。相手から何の反応もなければ、教えは成立しない。両面通行において、教えというものは成立する。

*   【また、群衆が飼う者のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。】(マタイ9:36) イエスは、人々が疲れ切って、助けがない故に、悲しんだ。つまり人々は、自分たちが何をすべきかを知らなかったのである。その様は、丁度、飼う者のない羊のように、惨めな姿をしていた。それは次のことを指摘している。人々が政治的指導者たちによって、利用され、同時に、宗教的指導者にも、ほとんど益するところがなかった。そこで、イエスは、弟子たちに、彼らを覆っている、多くの霊的必要を、神が用意していることを促し、励ました。

 *  そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』】(マタイ9:37) とても有名な言葉である。私は、聖書学院時代、良く宣教師から、この言葉を聞かされた。何度も何度も聞かされた。今思うと、<皆さん、どうか主の働き人になってください。>とのお誘いだったのかもしれない。そうだろう、彼らは遠い異国にきて、主の宣教に励んでおられたのである。困難は一入であったであろう、同時に喜びも大きかったに違いない。そして共に預かりましょうとの言葉であった。

マタイ10章に入ると、12人の弟子を選び、派遣する場面に移る。マルコやルカには、その選別の意図が記されているが、マタイは唐突である。多分それは、旧約の12部族との関連が強い。12の弟子は、〖使徒〗と呼ばれる。その意味は、〖遣わされた者〗との意である。それは、イエスが、教え、行ったことを引き継いで行く人である。決して自らの力や努力で、遂行して行く働きではない。キルケゴールは、天才は、自らの能力によって立つが、使徒は、神の力によって立つとの言葉を残している。〖使徒〗は、すべてをイエスに倣って生きる者のことである。<7月2日のメッセージ >






7月2日のメッセージ        ≪ 悪人正機 ≫

*   【 イエスはそこを立ち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がって、イエスに従った。】(マタイ9:9) イエスが、カファルナウムで、中風の人を癒された記事が、この前に記されている。人々は非常に驚き、衝撃を受けたことが見て取れる。さもありなん、病人や、障害を持つ人は、当時、社会からつまはじきされていた。誰も相手にしなかったのである。しかしイエスは違っていた。彼らを優先的に優遇したのである。そして次に、徴税人が弟子として招かれるのである。

*   〖徴税人〗は、人々から忌み嫌われていた。何故なら、彼らは、ローマに仕える手先のような存在だったから。徴税人は、ローマへ税金を納めるために、ユダヤ人があえて選ばれ、その任に就かされた。ただでさえ、国に税金を納めることは、人々の反発を招きかねないことである。まして、だれが、敵であり、為政者であるローマに、税金を好き好んで納めるであろうか?しかし彼らには、特典が与えられた。それは、自分の裁量で、ちょろまかすことができた。だから彼らは多く、金持ちであった。マタイもその一人であった。

〖弟子の召命〗の記事は、どれも単純で、短い記事である。ペテロがイエスに招かれた出来事も同様である。【イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう。』と言われた。するとすぐイエスに従った。】(マタイ4:18) ここにも何ら人間的な描写は見られない。彼らの決意とか、準備とかは一切記されていない。不思議である。しかしここに〖弟子召命〗の特性が表れている。

イエスの弟子になるということは、こちら側の能力とか、資格は問題ではない。イエスの弟子になる資格は何か? それに相応しい、人間性が必要だと考えられる。豊かな人間性がなければ、イエスの弟子になることはできないと考える。短気で、器の小さい人間が、イエスの弟子になったら不幸である。伝道の妨げにさえなる。しかしもしそうであれば、イエスの弟子には誰もなれない。イエスの弟子になるとは、イエスの招きに応じることである。すべてをイエスが、備えてくださるのである。






< 6月25日のメッセージ >
  ≪ 結果を出せなくても ≫    *富士教会にての説教です。

(   【 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を実らせることはないし、悪い木が良い実を実らせることはない。】(マタイ7:17) 人間の言葉と行いとの関係は、その人の本質を表す。そのことが、≪木と実≫との関連で宣べられる。木が、その実を実らせることで、木の姿が示される。つまり、木はその実によって、何の木かがはっきりする。≪木はそれぞれ、その実でわかる。茨からイチジクを取ることはないし、野ばらからブドウを摘むこともない。善人は良い心の倉から良いものを取り出す。≫(ルカ6:44)

(   ルカは、≪木と実≫との関係をもっと、明確に語っている。この記述は、イエスが≪山上の説教≫を語る、結論として語る、たとえである。しかもかなり鮮明なたとえと言える。≪山上の説教≫では、かなり高度な教えが宣べられた。例えば、自分の義を見せるために、人前で大げさに振る舞うことを、≪偽善者≫とまで呼んだ。そして≪祈り≫、≪施し≫等が例に出され、施しをするとき、≪人に褒められるため、会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らすな。≫(マタイ6:2) なぜそのような行為がいけないのか? 

こそこそと行うより、よほどましではないかと思うが? いずれにしても、イエスは、口先だけ、あるいは心にもないことを語ったり、行ったりすることを禁じている。≪心からあふれ出ることを、口が語るものである。≫(ルカ6:44) “ For the mouth speaks what the heart is full of ” さらにイエスは結論で、≪二人の建築家≫のたとえを語る。【それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができる。】(マタイ7:24) このたとえは、一見して、比喩と見えるが、両者を対比的に描くことで、≪挑発的≫効果を狙ったのか?


(   このたとえは、≪賢いと愚か≫、≪岩と砂≫、≪行うと行わない≫、≪倒れないと倒れる≫との対比が、たとえを効果的に描いている。イエスが、何を言おうとしているのか、明確である。誰も愚か者にはなりたくない。≪賢い人≫になりたいと願う。しかし≪行う≫、≪実≫とは何を意味するのか? 我々が通常言う、≪結果≫、≪成果≫を言っているのか? ≪成果≫が出ないと、失望する。では信仰の世界での≪実≫は、≪結果≫のことなのか? 否である。≪悔い改め≫こそが、実である。





<6月11日のメッセージ >
      ≪ 山に登って ≫

ö   【 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。】(マタイ28:16) マタイ福音書の最後の記述である。イエスが天に帰られる直前、弟子との最後の別れである。いよいよイエスが、弟子を≪世界宣教≫へと派遣する。マタイ特有の記事である。場所が≪山≫というのが、印象的である。なぜわざわざ≪山に登って≫、イエスは弟子に語られたのだろうか? マタイでは、≪山≫は、単に地理的場所ではない。神学的意味がある。

ö   ヨハネでは、復活されたイエスは、≪部屋≫で、弟子が集まっているところに、現れる。それに比し、マタイでは、殊更≪山≫が、強調される。例えば、≪山上の変容≫が起こった場所は、≪高い山≫であった。【 六日の後、イエスは、ペテロ、そしてヤコブとその兄弟ヤコブを連れて、高い山に登られた。】(マタイ17:1) あるいは、もっと有名な話≪山上の説教≫も、やはり≪山≫で語られている。<イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちの近くに寄ってきた。>(マタイ5:1) またイエスは、祈るとき、山に登られている。

  それ故、マタイ28:16で、イエスが、<山に登って>と言及しているのには意味がある。旧約との関連で、考えると、やはり<山>は、モーセに与えられた≪十戒≫の付与が、≪シナイ山≫であることを忘れてはならない。それは、≪山≫が、特別な場所であることを意味している。即ち、≪山≫は、怖れと聖なる場所であった。昔、イスラエルでは、神は、≪山の神≫と呼ばれた。それは≪田の神≫との対比で、そう呼ばれたのである。≪田の神≫は、バアル礼拝に象徴されるように、≪豊作の神≫であった。しかし≪山の神≫は、人間が近づくことができなかった。

【 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。】(マタイ28:17) 彼らは、復活されたイエスに会い、喜び、そして礼拝した。しかし疑う者もいた。これはどうゆう意味であろうか? この描写には、初代教会の信徒たちの姿が、良く描かれている。復活の主に、出会ったことが、彼らの再出発となった。しかし≪疑う者≫もいたとは、どうしてであろうか? 復活の主に出会えば、不信仰も吹っ飛ぶはずなのに! しかし事実は違っていた。地上では、完全な信仰は見られないということか?




<6月4日のメッセージ >
     ≪ 飢え、渇き ≫

ö   【 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『 渇いている人は誰でも、わたしのところにきて飲みなさい。』】(ヨハネ7:37)≪祭り≫とは、≪仮庵の祭り≫のことである。この祭りは、ユダヤ三大祭の一つで、9月か、10月に開かれた。それは、イスラエル人の<荒れ野での生活>を思い起こす祭りであり、そのクライマックスは、水が、シロアムの池から、神殿へと運ばれる。それは、荒れ野での生活の時、<岩>から水が出てきたことを思い出させる。この出来事は、民数記20章に詳しい。

   ö  この事件は、<メリバの水>との名で有名である。<イスラエルの人々、その共同体全体は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。さて、そこには共同体に飲ませる水がなかった。彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。>(民数記20:1) 実に生々しい記述である。民の激しく言い寄る勢いが伝わってくる。そこまでしなくてもと思うかもしれないが、彼らにとって、<死活>問題であった。人は死を予感させるような事件に出会うと、正常ではいられなくなる。今まで溜まりに溜まった、不満、不平が一気に出てくる。彼らにとって、そのような出来事であった。

 ö   そこで、モーセが主に執り成すと、主は、<あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に、共同体を集め、彼らの目の前で、岩に向かって、水を出せと命じなさい>と言われた。モーセは、この民に対して、どのように臨んだのであろうか? 深い同情を寄せて、取り継いだであろうか? 否である。<反逆する者らよ、聞け、この岩から、あなた方のために水を出さねばならないか?>と表現している。彼はしぶしぶ神の命に従ったのである。この事件は、後世に<メリバの水>と呼ばれ、イスラエルの歴史に残る、汚名となった。しかしイエスは、<生きた水>と自らを語る。

【 わたしは渇いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。】(イザヤ4:3) イエスは、霊的に渇いた人に、命を与える象徴での、命の水である。サマリアの女に、イエスは、≪この水を飲む者はだれでもまた渇く≫(ヨハネ4:13)と言われた。人が渇きをいやすには、イエスの与える水を飲むしかない。今日は、≪ペンテコステ≫である。テーマは、やはり≪命≫である。≪神の霊≫の働きは、人に命を与える。






<5月28日のメッセージ >
     ≪ 心の目を開く ≫

ó   【 わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせたことばは、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩編とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。】(ルカ24:44) イエスの≪昇天≫の出来事が記されている。イエスが復活されてから、40日経って、イエスは昇天された。その期間、イエスは十字架と復活を、弟子たちに懇切に説明された。その特徴は、それが聖書に記されているという事である。何も特殊な、奇想天外な出来事ではなく、聖書を良く読めば理解できるのである。

ó  何故40日間もの長きに渡って、弟子を指導しなければならないのであろうか? それは、はじめ弟子たちは、イエスを、イスラエルが長い間、ダビデ王の再来を求めてきたが、その王の実現だと誤解したからである。しかしイエスは、全く違う姿で、王になられた。それは僕の姿で、人に仕えるために来られた。イエスは、彼らを諭すため、決して、彼らの十字架を前にしての行動を、責めたり、咎めたりしなかった。むしろ彼らに、聖書に返ることを促した。つまり十字架と復活が、聖書の成就であることを教える。

ó   【 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『こう、記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から、よみがえる。そして、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。』】(ルカ24:46) “ Then he opened their minds to understand the Scriputures. ”≪心の目≫とは何でしょう? 心に目があるでしょうか? これはたとえである。パンチのきいたレトリックである。聖書の教えは、自動的に理解できるものではない。

ó   宗教心が厚い薄いも関係ない。苦労しているか否かでもない。言うなれば、神へと心を開き、聖書に耳を傾けねばならない。<もし私が、神が示されることを、見ようとしたいならば、目を閉じなければならない。人が神の言葉を知ろうと願う時、神は私を盲目にされる。神が、私が見ることができるため、盲目にされる。その時はじめて、私は、今まで知らなかった他のことが理解できるようになる。>(ボンヘッファー) ≪イエスの昇天≫で不思議なことがある。それは、イエスとの別れなのに、彼らは喜びに包まれていた事である。






<5月21日のメッセージ >
    ≪ 知られざる神 ≫ 

ó   【 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう、父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたと一緒にいるようにしてくださる。】(ヨハネ14:15) 今日は、二ヵ所の日課から学びたい。一つは、ヨハネ14:15から。<弁護者>とは何か? 直接の意味は、<聖霊>のことである。原語の意味は、文字通り、<弁護者>、<法定代理人>を指している。あるいは、<仲介者>、<慰め主>、<カウンセラー>を指す。英語では、He will give you another Helper, who will be with you forever.

ó  【 わたしの子たちよ、これらのことを書くには、あなた方が罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。】(Ⅰヨハ2:1) ここでは、イエスが、≪弁護者≫と表現されている。≪聖霊≫は、イエスの働きを引き継ぎ、書かれた言葉とサクラメントを通して、神の真実を知らせる働きをする。その働きの中心は、≪仲介≫、≪執り成し≫にあることが明確である。彼は、主イエスの影響と力に、人を結び付ける。世間での≪仲介≫は、うまくゆかない。中立を保つのは難しい。

    【 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点において    、あなた方は信仰のあつい方であると、わたしは認めます。道を歩きながら、あなた方が拝     むいろいろなものを見ていると、<知られざる神に>と刻まれている祭壇さえ見つけたからで    す。』】(使徒17:22) 今日取り上げたいもう一つの箇所である。パウロは、第二伝道旅行     の際、<アテネ>に立ち寄った。当時、アテネは、文化の中心地であった。いわゆる、<ギ    リシャ哲学>のメッカであった。ソクラテス、プラトン等の哲学者を出した。

ó   パウロのこの時の口調はいつもと違っていた。どこか気取った、あるいは気負った向きが強くみられる。さもありなん、最高の哲学者が生まれ、しかも優れた哲学者が学問の世界を支配していたからである。彼の自負が、この演説には、垣間見える。ところで、<知られざる神>とは何か? 名前がない神という意味である。何を拝んでいるかわからない。しかし物珍しいから祭壇を築いていた。恐らく、人間界の<不慮の事件、災害>を、神の怒りと考え、見逃してもらおうとの企てであった。パウロは、そこで本当の神を説く。 





5月14日の説教         ≪ 生きた石 ≫


ó 
 ヨハネ14章~16章は、≪イエスの別離の説教≫である。この種の長い決別説教は、他の福音書には見られない。旧約では、創世記49章の≪ヤコブの祝福≫が有名である。≪集まりなさい、わたしは後の日にお前たちに、起こることを語っておきたい。≫(創49:1) ヤコブには12人の息子たちがいた。彼は、一人一人に最後の言葉を語る。イエスも、ここで弟子たちに、別れの前に、つまり死を前にして、最後の祝福をする。その中身は、まず動揺しないこと、別離は一時のことで、再び戻って来ることを告げる。

ó   【 心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。】(ヨハネ14:1)イエスは、最後の祝福を、励ましから始める。心配しないように。気落ちしないようにと。別れを前にして、弟子たちは動揺した。当たり前である。師と仰ぎ、尊敬していた人との別れが近づいて誰が心騒がせないでいられようか? イエスの言葉は、単なる慰め、気休めであろうか? 多くの場合、私たちの励ましは、感傷か、あるいは逆効果になることがしばしばである。イエスの励ましはどうして、力があったのか?

ó  【 行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。】(ヨハネ14:3) イエスの励ましに力があるのは、自身の経験から生まれた言葉だから。そして何よりも約束が伴っていたからである。イエスと弟子との関係を、この言葉は指している。人間にとって、重要なことは、家庭、仕事、友人等あるが、最も重要なのは、<住まい>、<居場所>である。それが<安住の場所>であれば、何も言うことはない。イエスとの関係に於いて、私たちは、イエスに<安住の場所>を見出すのである。

ó   サンパウロ教会に、三浦久和さんと言う、教会の草創期から、中心メンバーであった人がいた。2008年、彼女の100歳の誕生祝いをした。その時、娘さんが、彼女の短歌を編集し、小冊子にした。≪私のカナンよ、ここは約束の地 真清水の乳 野イチゴの蜜 ≫全てのブラジル移民は、想像以上の苦労をしてきた。特に戦前移民は、耐えに耐えた。久和さんも例外ではない。その彼女が、やっとそこを≪約束の地≫と歌っているのが印象的である。 ≪みんなみの 十字星光る 天の下 しかと根をはる 日本移民百年 ≫






< 5月7日のメッセージ >
         ≪ 門 ≫

Ë   はっきり言っておく、羊の囲いに入るのに、門を通らないで他の所を乗り越えて来る者は、盗人である。門から入る者が羊飼いである。】(ヨハネ10:1)
 これから幾つかのテーマがイエスによって語られる。まず≪門≫である。当時の羊小屋は、通常石壁によって囲まれていて、壁に開閉できる門が、設置されていた。そこには必ず≪門番≫がいて、盗人が入らないように見守っていた。従って、≪門番≫は重要な役目を担っていた。

 Ë   今日のText、全体のテーマは、何といっても、≪良き羊飼い≫である。羊の飼い方は、西洋   と中東では異なっていた。西洋の世界では、羊飼いは、羊の群れの背後について行く。時に  、犬を用いて、群れを導く。しかし、中東では、羊飼いは、羊の先頭を歩く。そして羊が分かるよ   うに、迷わないように、笛等の音を出し、羊を連れて行く。しばしば、二三の違った群れが交じ   り合うこともあるが、しかし問題は起こらない。羊飼いが元の道を進む時、彼らはいつもの呼び   声、音で彼らを呼び、お互いの羊たちは、自分の羊飼いに従う。

Ë  わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。】(ヨハネ10:11)
 ≪羊飼い≫のテーマは、旧約にたくさん、その姿が語られている。代表的なのが、詩編23である。<主は私の羊飼い。私には何も欠けることがない。> この詩を作ったのはダビデと言われている。彼は、イスラエルの二代目の王であるが、元々は羊飼いであった。彼が舞台に登場してくるのは、初代の王であるサウルを慰めるためであった。サウルは優れた王であったが、ある時から、悪霊に取りつかれるようになる。

 Ë   それで呼び出されたのが、ダビデであった。彼は竪琴を上手に弾いた。≪神の霊がサウル   を襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心がやすまって、気分が良くなり、悪   霊は彼を離れた。≫(サム上16:23) ダビデは、実に竪琴の名手であった。それ以来、サウ   ルは、ダビデを殊のほか重宝し、側近に抱えるようになる。ダビデは、更に武勇にも優れてい   た。その証拠に、ペリシテとの戦で、敵軍の勇士、ゴリアテを見事破ってしまう。彼の働きは順   風満帆に見えた。しかしやがて両者は仲たがいの時がやってくる。






<4月30日のメッセージ >
     ≪ 疑い深い人間 ≫

¹   十二弟子の一人で、デドモと呼ばれているトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。】(ヨハネ20:24) 
 復活されたイエスは、同じ日の夕方、弟子たちが一堂に会していると、<安かれ>と言って、彼らの中に入って来られた。しかしその時、トマスはいなかった。彼が、復活のイエスを信じることができなかったのは、彼の性格が疑い深いということもあるが、弟子たちと共にいなかったことが、主な原因と言える。トマスは、ヨハネ11:16にも出てくるが、熱狂的、同時に理性的な性格である。

¹   【 ほかの弟子たちが、彼に『私たちは主にお目にかかった』と言うと、トマスは彼らに言った。『私は、その手に釘跡を見、私の指をその釘跡に差し入れてみなければ、決して信じない。』】(ヨハネ20:25) トマスは、現実的、実際的に考える人間である。彼の主張は、<見ないと信じない>と言うのはそこから来る。確かに、弟子たちは、復活の主が、彼らに現れたので、信じることができた。八日の後、同じように、イエスが、弟子達がいる所に現れ、トマスもいた。主イエスは、トマスに語り掛け、信じる者になりなさいと言われた。

¹   【イエスはトマスに言われた。『私を見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである。』】(ヨハネ20:29) <復活>は証明できない。だから私たちの感覚を超えている。この言葉は、後世にキリストを信じる人たちへの励ましである。復活を見たい、奇跡を見たいという願いは、誰しも同じである。しかし人間は、見たからと言って、果たして信じることができるだろうか? もっと重要なことが語られていると思う。復活は、見ないで信じるから意味がある。否見ないで信じるものなのである。見たとしても信じない者は、信じないから。

¹   <星の王子さま>と言う有名な作品がある。あらすじを簡単に言うと。主人公の王子は、小惑星からやって来た。王子は、色々な星を旅する。そしてどこか変てこな大人たちに出会う。最後に地球へやって来る。悲しくなって泣いている王子に、キツネがやって来る。キツネから、仲良くなるとは、そのものを大切なものだと考えることだと教わる。そしてキツネから<心で見なくちゃ、ものごとは良く見えないってことさ。肝心なことは、目に見えないんだよ。>との人生哲学を聞く。このことは、信仰の世界にも全く通じる考えだと思う。



< 4月16日のメッセージ >
     ≪ 石をわきへ転がし≫

¹  さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。】(マタイ28:1) 
 マルコ16:1では、女性たちが、イエスの遺体に香料を塗るため、朝早く、墓に向かったと記述している。マタイは、マグダラのマリアともう一人のマリアが、明け方に墓に向かったと書いてある。いずれにしても、彼女たちは、偉大なお方に、最後の勤め、弔いをするために墓に向かった。それは、香料を塗ることも含まれていたが、チャント(悲しみの歌)を唱和するためでもあった。

¹   マタイ27:66には、特に、墓の前に、大きな石が置かれていたことが記されている。しかも番兵が就いていた。イエスの遺体を墓に葬ったのは、ヨセフと言う人物であったが、ピラトは、わざわざ番兵を就けたのである。それは人々の噂が気になっていたからである。【すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。】(28:2) 彼女たちが、墓に近づくと、地震が起こり、天使が舞い降り、墓に立てかけてある石を転がした。女性たちは、はじめから分かって心配していたことであろう。

¹   彼女たちは、恐らくあまりの動揺と不安で、その石をどうするかなど考える余裕を失っていたに違いない。それこそこの石は、彼女たちの心が閉ざされていたことを象徴している。人間は、あまりの衝撃を経験すると、冷静な判断ができなくなる。しかし天使は、その大きな石をわきへ転がし、イエスの復活を伝えたのである。この描写は、復活を力強く語っている。復活、それはまず、天から伝えられた、我々悲しみと不幸で、あたかも心が石で塞がれているような人間への、メッセージである。決して人間が考え、作り出したような話ではない。

¹   【天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。』】(マタイ28:5) 復活は、天からの調べである。天使は、その役を担った。それは、神からの最後の、一回限りの調べである。復活は、四散した弟子を、再び集めた。そして彼らを立ち直らさせた。彼ら弟子たちは、大きな失敗をした。イエスの十字架を前に逃げたのである。どんなに慚愧の念があったであろう。その彼らを再び立ち上がらせた。しかしそれは、<復讐劇>のはじまりではない。復讐を超えていなければならない。それが復活である。





< 4月9日のメッセージ >
     ≪ ゲッセマネの祈り ≫

ö   【それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネと言うところに来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。』と言われた。】(マタイ26:36) 
 今日は、<受難主日>である。Textは、マタイ26,27章全体が選ばれている。この長い聖書における<イエスの受難と十字架>を、音楽史上稀に見るぐらい美しく、見事に描いたのが、バッハの≪マタイ受難曲≫である。この季節になると聴きたくなる曲でもある。1727年の受難週の礼拝のために、バッハは作曲した。

ö   場所は、ライプティヒの聖トーマス教会であろう。彼が、教会のカントールを務めていたからである。礼拝のためとは言え、まことに長い演奏で,約3時間は優にかかる。しかしこの名曲も、当時の人はあまり評価できなかったようである。何故なら、たったの一回限りしか、演奏が行われなかった。この曲を世界的に有名にしたのは、それから100年後のこと、埃に埋もれていた楽譜≪マタイ受難曲≫を、再演した、メンデルスゾーンであった。それから、バッハ・ルネッサンスが起こり、今日のようなバッハ評価に繋がったのである。

ö   ≪ゲッセマネ≫は、今日では、正確に特定できない。恐らくオリーブ山の近くにあったであろう。そこでイエスは、真実の人間としての苦悩を経験された。≪初代教会≫は、キリスト論論争が盛んであった。キリストは、神の子か、それとも人間の子なのかと。その中に≪ドケチズム≫仮現説があった。それによると、イエスは、神の子であって、イエスと言う人間を仮の宿としたと言うのだ。この考えは、有力であった。もしこの説が正しいとするなら、イエスは、完全な人間ではなく、彼の受難は、単なるパントマイムに過ぎなくなる。

ö   ≪イエスの受難と十字架≫は、かなり劇的に描かれてはいるが、その背後に、全ては神のご計画であるとの考えが隠れている。人類史上まれに見るドラマが展開されているが、そして人は、このドラマを読んで、ハラハラドキドキさせられるが、記述は、それに比して生々しいと言うより、淡々としている。しかし≪ゲッセマネの祈り≫だけは違う。イエスの人間性が実に良く表現されている。彼の死を前にしての懊悩が、その息吹が伝わってくる。【わたしは死ぬばかりに悲しい、ここを離れず、わたしと共にいて目を覚ましていなさい。】(マタイ26:38)

 


< 3月26日のメッセージ >
        ≪ 誰のせいか? ≫

è   【さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それとも、両親ですか?】(ヨハネ9:1,2) 

 <盲人の癒し>の物語は、旧約外典、≪トビト書≫に記されている。トビトは、アッシリアのニネベに生活した。サマリアが戦争に負け、捕虜として連れていかれたのである。彼は、信仰に厚く、正義を愛し、そればかりか同胞にたくさんの施しをした。

è   彼は、その時代にほんろうされて、紆余曲折の人生を歩むが、幸いに、当時の王に認められ、地位の高い要職に就く。ある祭りが行われていた時、同胞が、理由もなく絞殺されてしまう。トビトは同情し、死体を埋葬する。人々が嘲ったが、彼は情に厚い人であった。しかしその時、雀の糞が目に入り、目に白い膜ができ、ついに失明してしまう。彼は、悲嘆に暮れ、涙の中に祈った。≪あなたは永遠に真実で、正しい裁きを行います。わたしを覚え、恵みをもって、わたしを顧みてください。わたしの罪、気づかないで犯した過ち、また、わたしの父

è   祖がみ前に犯した罪の故に、わたしを罰しないでください。≫(トビト書3:3) この祈りに、当時の≪因果応報≫思想が色濃く出ている。彼は、失明した。理由は、何か悪いことをした結果、罰として、禍が起こったと言うのである。トビトは、幸いに、後日癒され、回復するのである。彼の苦しみは、失明と言う身体的障害以上に、当時支配していた、罪の結果であると言う、≪因果応報≫に苦しめられた。弟子の質問は、そのような旧約以来、支配していた、≪罪とわざわい≫との関係が、顔をのぞかせている。 

è   【イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』】(ヨハネ9:3) イエスは、<因果応報>を打ち砕いた。” God’s power might be seen at work in him. ” イエスは、人々を苦しめ、悩ませていた呪縛を、解き放ったのである。このような呪縛は、今日でも強く支配している。特に日本社会には、強い。一度失敗すると、世間の目は冷たい。イエスは、全く反対の考えを提供した。つまり<神の栄光>の意味を全く新しくしてしまったのである。





<3月12日のメッセージ >
    ≪ 神の朝に向かって ≫

è   【さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。】(ヨハネ3:1) ニコデモは、当時の最高議会、サンヘドリンのメンバーの一人であった。彼はファリサイ派であったが、聖書の研究に余念がなかった。しかし如何せん、高齢であった。彼は、この後、再び、イエスの十字架を巡って、登場する。(19:38) 彼は、当時における最高の地位を得た人であった。その彼が、イエスを訪問した。しかも夜であった。人目をはばかったのかもしれない。しかしイエスを尊敬していたに違いない。

è   【ある夜、イエスの元に来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。』】(3:2) ニコデモは、心の柔らかな人間であったようだ。普通であれば、地位もあり、しかも高齢に達している人間が、一介の巡回説教者ごときに、わざわざやって来て、質問するなどあり得ない。それを考えると、彼は相当、物事を深く考え、真理を探究することに熱心であった。人間、高齢になると、教えることには、熱心でも、学ぶことには、疎くなるものである。そして高慢になるのが常である。

   【イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見   ることはできない。』】(3:3) イエスの常套句がまず語られ、その後、真理が表明された。この   ≪新たに≫との表現は、原語では、<上から>、<もう一度>との意味がある。しかしニコデ    モは誤解した。彼は、恐らくさらなる戒めへの扉が開かれると思ったのである。それで、イエス   に年を取った者が、もう一度、生まれることなどできる訳がないとイエスに詰め寄った。当然で   ある。誰でもイエスの言うことは、分からない。理屈に合わないからである。

è  【 肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。】(3:6) ニコデモが誤解することで、イエスの語る真理への道が開かれた。肉とは、人間の起源を指している。しかしこの肉である人間は、変わることができない。何故なら、人間は、土の塵から造られ、それに神の息が吹きかけられることで、生きた者となったからである。それが、<アダム>の由来である。<土の塵>(アダマ)から、<人>(アダム)が創造された。従って、<新たに生まれる>とは、神の霊によらなければならない。しかしそれは、人間の理解を超えている。





< 3月5日のメッセージ >
      ≪ サタンよ、退け! ≫ 

Ë   【さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて、荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。】(マタイ4:1) イエスは、サタンから三つの試みを受けた。はじめの二つは、巧妙に、最後は、あからさまに。イエスは、それらをすべて退けられた。その根拠のどれも、申命記からの引用である。(申命記、8:3,6:13,16) イエスが受けた誘惑は、イスラエル人が、荒れ野で受けた誘惑と似ている。イエスも、彼らと同様の誘惑を受けられた。しかし違いは、イエスは、失敗しなかったことである。

Ë   サタンは、聖書に、たくさんの姿で現れる。例えば、ヨブ記では、神が開く天の法廷のメンバーである。あるいは、ダビデに対して、イスラエルの人口を数えるように誘惑する。≪サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。≫(歴代上21:1) マタイは、それらの歴史的背景を顧慮しない。また、神の試みと悪魔のそれとを区別しない。彼は、むしろ単純に、イエスが、どのように戦い、打ち勝ったかをしか記さない。つまり、マタイは、イエスが救い主として、悪魔からの解除を説こうとしている。

Ë   マタイは、≪四十日四十夜≫、イエスが、試練に遭ったことを記述する。しかしこの言葉は、イスラエルが、荒れ野で試みられた40年と、最もリンクしている。≪あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。≫(申命記8:2) 試練を受けるのは、神の民であるが故である。普通の人間は、試練は受けない。受けても、スルーしてしまう。上手くかわすのである。あるいはごまかすと言った方が適当であろうか?

Ë   【 すると、誘惑する者が出て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』】(マタイ4:3) ユダヤ、キリスト教の伝統では、サタンは、様々な帽子をかぶっている。告発者、中傷者、あるいは黄泉の世界の支配者。しかしここでは、サタンは、試みる者として描かれる。彼は、イエスと神との仲を割こうとする。それにしても、注目したいのは、神の子が、<パン>と言う、あまりにも人間的問題で試みられていることである。飢えとは、あまりにも人間的事柄である。即ち、イエスは、全き人間として誘惑を受けられた。






< 2月26日のメッセージ >
      ≪ 輝いている ≫

(   【六日の後、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。】(マタイ17:1) マタイは、<山上の変容>の出来事を、<六日の後>と記している。明らかに、モーセのシナイ山における<十戒>授与の情景を意識している。つまり、<六日間>、シナイ山に雲が覆い、七日目にやっと、神がモーセに語られる。(出エジ24:16) ルカだけは、<大体八日目に>と記してある。<山上の変容>がどこの山で起こったかは不明である。ある人は、今日のレバノンにある<ヘルモン山>と特定する。

(   【ところが、彼らの目の前で、イエスの姿が変わり、その顔は輝き、その衣は光のように白くなった。】(マタイ17:2) 彼らが、シナイ山の頂上に着いた時、突然イエスの姿は、彼らの目の前で、変容した。彼の顔は、太陽のように輝き、彼の衣装は、真っ白くなった。昔から、神の栄光に包まれると、顔が輝き、衣が真っ白になった。(出エジ34:27) かつては、神の栄光が、モーセに臨んだ。しかし今や、この時、神の栄光は、イエスに臨んだのである。まさに神の子として、この地上に歩まれたのであった。

ペテロはイエスに向かって言った。『主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。もし、おさしつかえなければ、私はここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。』】(マタイ17:4) ペテロの提案は、旧約時代の、荒れ野での出来事を、反映している。ペテロの指摘は、≪仮庵の祭り≫を暗に指し示している。≪仮庵の祭り≫は、豊かな意味を持った言葉である。それは、神の栄光が充満した、神の臨在を語る。それは、イスラエルの荒れ野時代を想起させる。

(  また同時に、ソロモンの神殿に繋がり、メシア時代にもリンクしている。【彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らを覆い、そして雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である。これに聞け。』】(マタイ17:5) 雲は、シナイ山に関係している。声が、その時、宣言した。そして幻は終わった。するとイエスだけが残っていた。弟子たちはイエスだけを見た。雲の中からのメッセージは何か? それは、イエスこそが王であり、僕であり、そして新しいモーセであると言うことである。






< 2月19日のメッセージ >
     ≪ 目には目を、歯には歯を ?! ≫

Ø   【あなたがたも聞いている通り、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。】(マタイ5:38) 非常に有名な、イエスの言葉である。昔は、キリスト教と言うと、この言葉が引用された。このイエスの言葉を、最も忠実に実践しようとしたのが、インド独立の立役者、マハトマ・ガンジーその人である。彼の立場は、<無抵抗主義>と呼ばれ、イエスの言葉と同列に並べられる。イエスも<無抵抗主義>であったと。

 Ø  しかし、果たして、イエスは、<無抵抗主義>を唱えたのであろうか? ガンジーの思想は、<非暴力主義>とも言い換えられる。つまり暴力に訴えない、抵抗主義なのである。ガンジーは、今までのように、暴力を使っていたのでは、イギリスと言う強国に勝てないことを知って、方法を変え、それが<非暴力>であり、彼のとった、抵抗であった。実に有効な方法であり、結果、インドを独立へと導いた。北森先生によると、イエスの教えと、ガンジーとは、違っていると言う。

 Ø   【あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。】(マタイ5:40) この場合は、法廷での争いが念頭にある。<あなたが兄弟姉妹と戦いをしている場合、むしろ裸になってしまいなさい>(申命記24:13) 醜い争いをしているより、負けてしまった方が、すっきりすると言うのである。そんな、お人よしでは、世間は生きて行けないと反論されるかもしれない。ここまでくると、<無抵抗主義>とは違う。無抵抗主義は、せいぜい、<下着>は返せても、<上着>までは、考えつかない。

 誰かが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に、ニミリオン行きなさい。】(マタイ5:41) ここでも、同様なことが言える。昔、ローマ兵は、自分の武具を運ぶ時、どんな場合でも、人に一マイル運んでもらう権利を持っていた。このローマ法の下で、愛国的ユダヤ人が、ローマへの反抗を燃やしても無理はない。しかしイエスは言う。もし彼らがそのような状況に出くわしても、ローマ兵士と、二マイル行けと。【父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。】(マタイ5:46) どうやらこれが結論であるように思う。神の憐みに生きることが全てなのである。





< 2月12日のメッセージ >
        ≪ 仲直りの道 ≫

Ø   【あなたがたも聞いている通り、昔の人は殺すな、人を殺した者は裁きを受ける。と命じられている。】(マタイ5:21) マタイは、これから六つの命令を細かく展開する。特徴は、伝統的な教えとの対比で述べられる。この語り口にそれが良く示されている。<昔の人はこう言っている。しかし私はこう言うと説明し、全く反対のことを語る>。このような語り口は、反対命題を通して、一つの衝撃を狙い、人を注目させるのに有益である。同時に、社会における、生き生きとした教えを語ろうとしている。

 Ø   このような口調は、新しい教えを説く時に、良く用いられる技法で、新鮮な息吹を伝えるのに役立つ。またその教えの<革命的>要素を引き出す。即ち、昔との比較で、マタイは、礼拝、結婚、裁判、政治、仕事に関して、偏見を批判し、新たな義を提供しようとしている。≪あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない。≫(マタイ5:21) イエスの≪言っておくが≫と言う前置きの言葉は、当時では画期的上述の仕方である。人々に強烈な印象を与えた。

Ø   【しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。】(マタイ5:22) イエスは、どういう意味で、この言葉を語ったのであろうか? 誰が聞いても理解に苦しむ言葉である。<怒り、軽蔑>等が、殺人と同罪だと言うのか? イエスは、ここで、表面的な現象だけを考えてはいない。少しイエスの真相に迫ってみよう。<怒り、軽蔑>は、直接殺人と結びつくわけではない。しかしそれらはお互いを分断し、切り離す結果を招くことが多い。<怒り>をドイツ語で、” Zerbrechen “と表現する。意味は<粉々に砕く>である。

 Ø   聖書の物語を読むと、<怒り>が、<殺人>と結びつくことが、あながち大げさと言えないことに気づかされる。例えば、≪カインとアベル≫の物語。彼らは、人類初めの兄弟である。アダムとエバは、≪エデンの園≫で罪を犯し、エデンの東に追放される。しかしそこで、やっと幸せを掴む。≪アベルとカイン≫が生まれたからである。しかしこの兄弟は、大きな悲劇を招くことになる。兄のカインが、弟アベルを手にかけてしまうのである。折角つかんだ、アダムたちの幸せも、つかの間でしかなかった。その殺人事件の発端は≪怒り≫であった。

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